お題 ●あなたはあたしを忘れてしまった。 で始まり
●話をするということがどれほどむずかしく、どれほど残酷なことであるか、彼女はよく覚えている。 で終わること
お題出典 「北の愛人」 河出文庫 著:マルグリット・デュラス 訳:清水徹
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あなたはあたしを忘れてしまった?
水道の蛇口に指を当てわざとまき散らした水に ぶざまに濡れた体操着で突っ立ちながらそいつは ぼそっとつぶやくように言った。
マジックで落書きされた汚い机を見た時も 鬱陶しい前髪の隙間から上目使いで見るとまた そいつはオレにささやきかけるのだ。
生まれ変わってもきっと解る、また一緒になろうねって あれだけ言い合ったのに。
そんな約束「覚えている」訳がない。そんな前世があったとしても こんな再会が待っていると知ってたら 約束なんかしない。
畜生。畜生。「忘れる」って何だ?大体「生まれ変わる」って「一緒になる」って何だ?
自分のことでイライラして心はいっぱいいっぱいなのにお前なんか クラス全員のストレスのはけ口のくせに。
何か思いっきり投げつけて 相手を傷つける暴言でも吐いてしまいたい衝動がこみ上げる。
そしてそれが初めての気持ちでないような 二人の間で時を超え繰り返されてきた営みのような暗い記憶を呼び起す。
*
貴女は私を忘れてしまった。
今度会う時は 思いっきり気持ちをぶつけてやろう。
憎しみで曲がりきった自分の心を 行き場のなかった怒りを 遠慮なんかしない、全部吐き出してやるんだと まだ血を流し続ける心の傷と同じくらい 癒えない傷を与えてやるんだとそれだけがわたしの心の支えだったのに。
久しぶりに会ったあなたはわたしのことも自分のしてきたことも全部忘れてただの呆けた小さなおばあさんになっていた。穢れのない赤子の目をして あなたはだあれと聞いたのだ。
*
きみはボクを忘れてしまったんだね。
そんな声がどこからか聞こえて 森の中で、幼い私は何かを探しているの。
大きな木の根元に あるはずのものがない。
この木じゃ、なかったのかな 場所を間違えたのかしら。
それが酷く不安で 気になっていて だけど 自分が探しているのがなんだかわからない。
森はどんどん暗さを増し 木々はずんずん大きく太くなり 私は森に呑み込まれる。そんな夢を繰り返し見る。
ナツキは深いため息をつき、その「探し物」の夢の話をした。
抱きしめようと手を伸ばしても、かたくなに身体を強張らせ そんな風に慰めて欲しいわけじゃない、と言った。
大事にしてて失くしたものとかある?そういうのが気になってるとかさ。
んとね・・小さい頃のお気に入りは大きなうさぎのぬいぐるみ。いつも一緒。出かける時も、眠るときも。お風呂にも連れて入った。
あれ・・いつから無くなったんだろう。
ナツキは眉をひそめ、爪を噛んだ。何かを思い出そうとするときの彼女の癖だ。
ぬいぐるみのうさぎさんね、女の子だね、やっぱ。うちって兄弟ヤローばっかじゃん、そういうのって全然なくってさ たまに女兄弟のいる友達んち行くとさ、やたらぬいぐるみ触ったりした。弟のことあんまり言わないけど、歳離れてるから あんまり関わりないのかな?
うん…。弟が生まれ、その世話でお母さんは忙しくなった。以前はこまめに洗ったり干したり、繕ってくれたのに もう、してくれないの。
そうだ、弟と友達が引っ張り合って、耳がちぎれ ジュースをこぼされてシミができた。泣きながらお母さんに訴えた。
きれいにしてよ。直してよ。
最初はなだめてくれたお母さんも 次第に不機嫌になり、
いつまでも聞き分けないこと言わないの、お姉ちゃんでしょ。
お母さんは私の手から うさぎを取り上げ、取り上げて・・どうしたんだっけ・・。
ナツキはまた爪を噛む。
取り上げ・・・捨てた。
びくりと身体を震わせると 宙に目を据えたままそう呟き 彼女は長い沈黙の後 静かに静かに泣き始めたのだった。
こども産むの怖い。優しくできないかもしれないの。
私は弟に全然優しくできなかった。こっそりつねったり叩いたりした。
家を出て、家族と顔を合わさずないで良くなってほっとしたの。こんな私が家族をうまく作れるわけがない。
その日 僕は黙って彼女の手を握り続ける以外何もできなかった。
彼女の両親に電話をし、子供ができたことを報告した。すっかり成人した弟が出、気弱そうな母親の声が「おめでとう」と「ありがとう」を言った。
気が早いかもしれないけれど、お祝いに贈りたいものがあるの。いつかこんな日がきたら ずっと そうしたいと思っていた、そう彼女の母親は言った。
数日後、宅急便で送られてきたのは うさぎのぬいぐるみ。
包みを開けたナツキは 「あっ」と言ったまま箱の中を凝視し、ゆっくりと手を伸ばすと 中からうさぎを抱き上げ 抱きしめ、頬ずりした。
──探していたのは このこ
「オレ全然覚えてないんだけど あの時はごめん。うさぎのぬいぐるみ、おふくろ同じのを探すのにそりゃ苦労してたよ」
ナツキの電話に 弟がそう言った。
「わたしこそ、いろいろごめん」
ナツキが言う。
「何?何の事?」
弟は笑っていたという。電話の向こうからかすかに聞こえた声は、思ったよりずっと明るかった。
大きくなったおなかを庇うように横を向いて、ナツキがうさぎを抱いて眠っている。あれから探し物の夢は見なくなったらしい。
*
あなたがわたしを忘れてしまっていたの。
わたしがどんなにあなたを待っていたか もう誰も知る人はいない。
待っていてくれるねと 遠い宇宙に飛び立って行く前に わたしを抱きしめて言ったのに。
帰ってくるはずの時に戻ってこず もう絶望的だと言われ 皆に忘れろと言われ、それでもいつかあなたが帰ると信じてわたしはあなたを待つことにした。
長い長い時間が苦しすぎて あなたが戻るまで時を止め、カプセルの中でさなぎのように眠って待った。だけど あなたはどこかの星で事故に遭い 地球に帰れなくなり その星の誰かと結ばれてそのまま戻ることをやめたのだ。
それを聞くため呼び起された。意味が解るまで長い時間が掛った。
そしておぼろげにその言葉の意味と経過した長い長い時間を理解した。
ひざを抱えて泣いた。日が暮れ日が昇り 明るくなって暗くなって 何回も何回も繰り返すまでずっと泣いた。
眠っていた年数分くらい泣いたような気がする。保っていた水分が全部流れ出したような感じだった。
わたしの心と身体は一気に老いた。髪は白くなり骨はきしみ 顔には深い皺が刻まれた。遠い星からの映し出された老いたあなた。
その画面さえも過去の日付が刻まれている。
自分のことは忘れて 私が幸せに老いていることを願っていたなんて どうぞ何も言い訳をしないで。お願いだから。
もうどこにもいない あなた。
話をするということがどれほどむずかしく、どれほど残酷なことであるか、わたしだってよく解っている。長い長い時の溝は どうしたって埋まらない。
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