温かい本棚


『知っている人はあまりいないだろうし、存在を知っていても意識する者は少ないと思うが――この通りには一軒の古本屋がある』なんて、最近読んだ本の一文を思い出していた。

いい加減 歩くのに草臥れて 人知れず存在する古本屋でもいきなり目の前に現れてくれないかと願う。両手に持った紙袋の一つの 持ち手近くがついに破れた。残暑とはいえ日差しは暑く、何でまたこんな昼間に出て来たんだ 馬鹿じゃないのと あたしは自分に向けて胸の内で悪態をついていた。でも こういうことって思い立った時しないといけないんだ。額の汗を袖で拭い、気持ちを立て直す。仕方ない、せめてあの角まで行って広い通りに出たら タクシーを拾おう。

照りつける日差しの痛さに立ち止まり 目をぐっと瞑る。ふぅと息を吐き ゆっくりと目を開けたら 見知らぬ老人が目の前に立って こっちを向いて微笑んでいた。

「そこで古書店をやっている者です。それ、売るつもりなら見させて頂きますよ」

老人の示す道の先には一軒の古びた家が見える。目を凝らすと玄関の戸の上に煤けたような色の木の看板があり「古書 久遠堂」と彫り込んであった。大型のチェーン店で売ってしまうつもりだった本たちだが どこの古本屋でいくらで売れたって構わない。老人は持ち手の切れた紙袋をあたしの手からふわりと引き取ると 胸に抱くようにしてすたすた先を行く。背筋のすっきりと伸びた、清清しいとも言えるその歩きっぷりに一瞬、年寄りだと思ったというのが見間違いだったのかと思う。反対の手に持っていた別の紙袋をこれ以上破かないよう 慌てて抱え直して後を追った。

本を処分しよう、そう思ったのは 自分の本棚にある本のラインナップのせいだ。

半年前まで付き合っていた智哉は年下で学生だった。常にお金がなく、読みたいという本は全部、あたしが買った。自分の知らない作家や自分の読まなかったジャンルの本が増えることが 何だか喜ばしく思えたものだ。彼が世界を広げてくれる、そんな気がした。参考書、学術書、去年の教科書 部屋の本棚がいっぱいになったと言っては そんな本まで智哉はあたしの本棚に置いて行く。この恋愛にすっかり舞いあがっていたあたしは 本を買うお金がないのに、智哉がそこそこ身なりに気を使っていたり 学生なりの「付き合い」で遊んだりしているところに 目を瞑ったままでいた。やがて気がつけば、一緒に行ったことのない場所のガイドブックや 知らないアウトドアの本まで増えていてその内、本だけ残して智哉はぱたりと来なくなった。智哉が初めて部屋に来た時だ。

「佐和さん、こんな漫画読むの?意外だなぁ…」

来客用に用意したティーカップ、取っておきの葉で淹れた紅茶を啜りながら あいつは本棚を眺めて言った。一番下の棚に詰め込んであったのに 智哉が見つけたのは 何巻も続く少年漫画だ。以前バイト先の先輩が週刊誌で読んでいるのを見て 買い集めたコミックス。漫画自体にも幾分は興味もあったけれど 本当はその先輩に貸すことこそが目的だった気もする。結局 その人とは本の貸し借りだけの「友達」で終わったのだけれどね。二段目の棚には 同じ文庫本が二冊ある。

─どこにでも売ってる文庫本だよ。キミの「彼女」も持ってるはずだし。聞いてみたら? 

友達の佑香の名を出した。「あたしの読んだその本」が読みたい、そんな含みのある言い方に思ってしまう自意識過剰な自分が嫌になる。もう一冊同じ本をわざわざ買って 

─ 間違えて二冊買ってたから、返さなくていいよ、この本はあげる。

何も感じてない顔をして押し付けるように 高木に手渡した。本当は 彼のことがずっと好きだった。

ラインや余白にメモなんかを書くひともいるけれど あたしは本を汚すのは嫌いだ。ページを開くクセもつけないままの新品みたいな本なのに 自分の読んだその本を貸すのに抵抗があった。隠した気持ちを読まれそうで怖かった。でもきちんと、そのもう一冊の新品の本も佑香の手からあたしの元に返ってきた。ダメージに追い打ちをかけるかのように 佑香の手づくりのクッキーまでお礼に添えてあった。

一番上の棚にあるのは 高校生の時にバイト代を貯めても買うことのできなかったハードカバー全5巻。実家を出て独り暮らしになった時 何もない本棚にまず何を置こうか考えた。

お祝いに何か買ってあげようという叔母の言葉にとっさに「本が欲しい」と答え、買ってもらった。けれど目新しい学生生活にかまけて結局ページを捲ることもなく それらの本は重たい背表紙を見せてただずっとそこにある。

高校時代に付き合っていた吉岡雄介は、本なんかちっとも読まない子だった。友達に薦められたSF小説を私に又貸しし、内容を要約して話させた。あたしはあまり面白いとは思わなかったけれど 無理やり面白いところを探して感想を言った。観る映画も話題も 全部彼に合わせた。どれもあたしが本当に好きなものとは違う。解っていたけれど 内容より吉岡雄介といる時間が大事だった。こんな本なら彼も面白いと思うかも、そういう本を選んで読んでみた。プレゼントにしてみようか それともさり気なく、ぽんと貸してみようか、散々迷った末、結局いつもの会話の中に そんな本の話題を潜り込ませたけれど 限りなくスルーされた。「明るくて真っすぐな」彼が好きだった。好きなつもりだったんだ。

─佐和ってさ オレといてもつまんないんだろ? 本当はオレのこと馬鹿にしてんだろ? 

吉岡雄介が別れを切り出した時 そんな風に言った。

─違うよ、違う そんなことない。何でそんな風に言うの?

否定しながら 泣きながら その恋の結末をどこか諦めていた自分がいた。

吉岡雄介を想って買った何冊かの本は 今も実家の本棚に残っているはずだ。本を処分しよう。本棚を見ながらあたしは思う。でなければ きっと前に進めない。

古めかしい石造りの門を抜けると 幅の広い硝子の引き戸がある。「久遠堂」の老人は戸の鍵を開け 一度振り向き、あたしに来るよう促すと 先に奥に入っていった。普通の家の作りとも違う、でも「店」というのともどこか違う、不思議な空間がそこにあった。よく磨かれた黒光りする木の床に天井まである立派な木製の書棚が壁に沿って造りつけてある。本棚と本棚の間の通路の突き当りに靴脱ぎが、そして一段上って畳敷きになったところに大きな文机がある。その後に濃紺の暖簾が掛かった、奥の住居への入口が見えた。

天井まで所狭しと並んだ本、平積みになった大量の本、その全てが重厚で圧倒的で そのくせどこか温かい感じに思えるのはなぜだろう。本の香りを胸に吸いこみ 目をつぶる。懐かしい所に戻ってきたような感覚、全ての本が、新参者のあたしを「お帰り」と、迎え入れてくれた そんな気がした。老人が特に何も話しかけず、文机で書類を見たり積まれた本を一冊一冊確認したり 何か書きものをし始めたのであたしはじっくりと本棚を吟味することができた。見つめて来る本たちに挨拶し、語りかけることができた。読みたかった古典の全集がある。授業で習う平安時代の恋愛も わびさびの世界も 和歌も漢詩も皆好きだった。国語の専門なのに白衣を着た高齢の五島先生の しわがれた小さな声を聞き逃すまいと必死で授業を受けた。わくわくした時間が脳裏に蘇る。興味を持った作家が「若いころ傾倒した」と随筆で述べていた 古い思想家の本がある。その作家自身の全集もある。好きな作家に影響を及ぼしたものは どれ一つ見逃したくないと探し回った時期もあったことを思い出す。

 洋書の中には子供向けの童話のシリーズの豪華本がある。背表紙をひとつひとつ見ていくと 小さい頃母が眠る前に読み聞かせてくれたお気に入りの物語が見つかった。眠くて でも続きが聞きたくて、布団の端を握りしめて眠気と闘った。

「明日もその次も いつでも読むから 今日はもうお休み」

眠るまいと必死のあたしを母は笑い、そう言って 背中をとんとん叩いた。明日もその次もずっとずっとあると信じてはいたけれど、今日、今 最後まで聞きたいんだ…とろとろと眠りの中に入りそうになりながら シーツに顔をこすりつけて 

「いやだいやだ、まだ眠くないもん」

と 続きをせがんだ。そんな母も あたしが中学に上がる前に亡くなった。絵画関連の書籍が並ぶ棚には、見覚えのある版画作家の画集があった。

 その表紙の版画の絵は そうだ、祖父の書斎に掛けてあったものだ。祖父の故郷の風景について、その版画を観ながら何度も祖父が語り聞かせてくれたことをあたしは思い出す。ひとり暮らしだった祖父が亡くなり、母の実家であるその田舎の家も取り壊され 今はマンションが建っている。夏休みに田舎を訪ねる理由もなくなって久しい。

すっかり忘れていたその画家の名前を口にする。祖父のくゆらす煙草の煙の匂いを ふと嗅いだ気がした。画集の並びの横の棚には絵本があった。

なかなか集団に馴染めなかった幼稚園入園したての頃、目に着いたのがお遊戯室の片隅の本棚だった。手を伸ばし絵本を開くと周りの何もかもを忘れた。騒がしい周囲も着なれない制服のことも 話しかけたくても他の子のことで手いっぱいの先生のことも何も気にならない。絵本の中に無限の時間と世界が広がり ひとや動物、石ころや雲、あらゆるものが幼いあたしにに語りかけた。友達になれた。ある日 横に座って一緒に絵本を覗きこんで話し掛けてきた子と仲良くなった。次第に幼稚園の中にも居場所を見つけ あたしはやっと幼稚園の中にも自分の世界を広げることができた。時間が行ったり来たりしながら あたしと本の長くて深い繋がりが、懐かしくて愛しい関わりが頁をめくるように思い出された。過去の、本と関わった時間があたしの心を温かく満たしていった。

「で、お嬢さんは 何を売ろうとしていたのかな」

声を掛けられて やっと我に返る。化粧箱入りの本 金文字の背表紙 布張りの本 名のある書家が書いたと思われる題字のある本 木箱に入ってるのは巻物だか掛け軸。そんなものを前に 自分の持ってきた安っぽい本を並べる勇気はもうない。

「いいんです。売れる本じゃないです」

「ほほう、そうかな?」

老人は 文机の横に置かれたままの あたしが持ってきた紙袋の上にゆっくりとその骨ばった手を載せた。

「思い出のある本だね。好きな人のために買った本かな。ああ これはまだまだ 温かい」

老人の声は深く 本に囲まれた空間に響く。

「温かい?」

文字の書かれたものに手に触ると 心のこもった内容かどうかその温かさで解る、あれは何の話だっけ。何だかその記憶はとても懐かしい匂いがする。何だったっけ…思いだそうとして思い出せないでいるあたしの顔を 老人は一瞬顔を上げて見、

「ほほう あなたは これを知っているね」

カバーも箱も外れ、ページの黄ばんだ古い装丁の少年文庫をいつの間にか出してきて畳の上に置きさあ というように差し出した。

あたしはこれを知っている。

あたしの目はその本に惹きつけられる。これは 田舎での滞在で退屈していたあたしのために 祖父が書棚から選んでくれたのと同じ本だ。届ける相手も差出人もはっきり解らない手紙を 何とか読むべきひとに届けようとする郵便屋さんの話。郵便局の妖精がトランプ代わりに使って遊ぶのは 封をしたままの手紙の束で、妖精たちは触れるとその手紙の「価値」が解るのだ。書いた人の心がどれだけこもっているのかってことは とてもとても大事なことなんだよ。祖父の声が聞こえる。その話は 郵便屋さんの努力で求婚の手紙は無事 恋人に届けられ その話は大団円に終わる。幼いあたしは 幸せそうな花嫁と花婿が並んで立つ ちょっととぼけた感じのする素朴な挿絵を 飽かずに眺めた。

「本だって同じだ。書く者の心、読んだ者の感動。そしてその本と持ち主が過ごした時間の大切さとか…そういうことがね、手に触れると伝わる温かさで解る」

老人は目を瞑ったままそう言って深く肯いた。

まさかね。そんなはずはない、とは思うものの その本から手に何だか温かい温度が伝わるような気がした。ふと最後のページを捲る。思いがけない蔵書印が目に入った。信じられない、目を疑った。─祖父の蔵書印だ。そして その前の黄ばんだページに 青いインクで『謙行様へ  雪乃』と記してあった。謙行は祖父、雪乃は祖母の名だ。祖母が祖父に贈った本。

どんな想いが込められた本なんだろう。いつどういう贈り物として この本は選ばれたのだろう。それよりどういう経緯でここに在り なぜここで自分の目に触れたのか。

たくさんの疑問と共に 長く心の隅に押しやっていた苦い気持ちが思い出された。亡くなる半年前、祖父に呼ばれて家を訪ねた時 祖父はこの本をあたしに譲ろうとしたのだ。大好きだった祖父だけれど その時は素直になれず、ふてくされた顔を見せた。揺り椅子に腰かける祖父は 今までより弱々しく一回り小さくなったようにも見えたが、まさか 半年後に亡くなるなんて思わなかった。

「そろそろ周りのものを整理しようかと思ってね。お迎えが来る前に」

何冊でも好きな本を持っていっていい、そしてこれは佐和に、と差し出されたのが この本だった。「もういい、こんな子供向けの本。何回も見たし」

押し戻すあたしに 気を悪くした素振りも見せず 祖父は静かに微笑んで肯いた。大事なひとがいなくなることを想像するのが怖くもあった。でも そんなことを言える素直さはその時のあたしにはなかった。

「祖父の蔵書はそっくり古本屋さんに託したと聞いてはいたけれど…」

まさか こんな風にもう一度目にするなんて思わなかった。傷めることのないようにそっと抱きしめて その小さな本に言葉を掛ける。─ごめん お爺ちゃん。あたし この本大好きだったよ

「たまたま私のところに巡って来た本だ。きっと誰かを探している本だと思っていた」

「誰かを、探す?」

「そう、本があなたを探していたんだよ」

この本があたしを・・・それは信じられないことでもあったけれど ここにこうして在ることは疑いようもない事実だ。

「本は良い。お嬢さんはその良さを知っている。素晴らしいことだ。そういう人を『特別な本』はずっとどこかで待っていて、本の方から呼びかける、そういうものだよ」

古書店の主人は何でもない当たり前のことを言うように 何かを書きつける作業の手を留めることなく言った。

「『人の手を渡った古い本には、中身だけではなく本そのものにも物語がある』、そう思わんかね」

ここに来る道で思いだしていた 最近読んだ古書店が舞台の小説。どんな本でも知っていると言うかのようにその本の一文を古書店の主人は引用して あたしに笑いかけた。


ぺんぺん草 花束にして

オリジナル小説、随筆など。fc2「stand by me 」から引っ越しました。

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