宝石たちの時間 

お題を見て オトナの事情な話を書き始めて あーまずい、これは苦手分野だと 何回か引き返そうとしました。以前他の話で出て来た彼女にも無理やり登場願い なんとか自分カラーに軌道修正。何とかまとまったような、まとまらなかったような。お題 始まりの文:自分にできるのはただそれだけだと思った。終わりの文;僕はたまらなく娘に会いたくなった。自分にできるのはただそれだけだと思った。「ごめん。すぐ戻らないといけないんだ」奈央を待たせていた喫茶店で 遅れた言い訳をしながら向いに腰掛ける。気づいて水を持って来ようとするウェイトレスを制し、ペンと印鑑を仕事の鞄から取り出て奈央の差し出す「承諾書」にサインし印を押した。仕事を休むことはおろか早退することも上司は許さなかった。理由をきちんと説明すべきなのは解っていたが、この上司に今の状況を話すのは避けたかった。いつも自分の仕事まで押し付け 僕を捕まえてはお前は無能だの、やる気がないだのと罵る上司だ。どうせまた僕や奈央、親まで引き出しての非難の対象になる。きっとそれは今後ずっと続く。いずれ社員にするという約束のまま3年が過ぎ、契約社員の立場は延長になった。このままでも先行きは不安だが 急に首でも切られたらと思うと 結婚もまして赤ん坊なんてまだまだ考えられないと思っていた。無理だそんなの と思っていた。思い込んでいた。*重い瞼をやっとのことで少し開けると白い天井が見えた。ぼんやりとした視界にL字型のカーテンレールが見える。その端に寄せてある 柄のないクリーム色のカーテン。点滴をひっかけるフック。白い壁ばかりの部屋の隅に TVの載った小さな棚。カーテンの向こうには 空いたベッドがあるのが見える。─ 病院…か。 母は生まれつき心臓の悪い人だった。入院と手術を繰り返してきた母の心配をよそに 息子の僕は身体だけ丈夫に育ち それはとても母を安心させた。母を見舞った病室以外僕は知らず、母を見送った辛い思い出だけの「病院」というものが嫌で ずっと近寄ることさえ避けてきた。自分に何が起きたんだろう。今の状況について何か思い出そうとしたが あまりに頭が重くて身体もだるい。頭がすっきりするまで待とう。目をつぶると、ベッドに身体を起こして座り、微笑みかける母の姿が浮かんだ。誰かが 囁くように呼びかける声が聞こえる。目を開けて相手を見ようと思ったけれどぼんやりとした像はぶれ、霞んでゆがむ。目を開けているのが辛くて 目を閉じた。きっと奈央だ、そう思った時だ。奈央よりももっと幼い声で その相手は呟いた。「よかった。やっと目が覚めた」まだ若い、というか子供のようなその声に 何か返事をしようと思ったが声が出なかった。細い指、小さな手が僕の額に そっと触れる。「いっぱい働きすぎなんだって。お休みもとらないとね」知らない相手には違いないのだが何だかその声が妙に懐かしく、素直にそのまま耳を傾けたくなったのはなぜだろう。「大丈夫。すぐに良くなるって。すぐに ぜんぶ 良くなるから」額に触れた手が ひんやりとして心地よかった。*「瑛士、瑛士くん」目を開けると今度こそ心配顔の奈央がいた。思わず視線が奈央のお腹のあたりにいく。「過労と熱中症、その上倒れて植え込みのブロックに頭をぶつけたって。どこまで災難続きなんだかね、吃驚する」訳が解らないという顔をしていたのだろう ─ 奈央はまず、僕の今の状況を教えてくれた。「何にも覚えてないんだ?」「・・・うん」「瑛士が喫茶店を出た後、病院から電話で呼び出された。まさかこんなことになってるなんて思ってもみなかった。」そうだ、このところずっと疲れていて 今日は朝から体調は最悪だった。奈央の身体がこんな時に 疲れているとか体調が悪いとか騒ぐのは まるで、出した結論への卑怯な言い訳のような気がして 意地でも黙っていようと思っていた。  お腹のあたりで留まった僕の視線に気づき、奈央はちょっとバツの悪そうな顔で微笑んだ。「行きそびれたよ。」そうか・・・。自分のことより先に 何だかほっとしている自分に気づく。ああ 生きているんだ。そこにある命、生きている。手を伸ばし、奈央のお腹に触れる。決めたことだ、もう考えないようにしようと思いながら やっぱりずっと引っかかっていた。サインするより前に もっともっと時間を掛けてちゃんと話をして 二人で考えるべきだったんだ。 相談すれば親身になってアドバイスしてくれる人だっていたかもしれない。父にも最近連絡取ってない。お前の彼女に一度会いたいと言われ続けたまま、時間を取れず奈央をまだ紹介できないままでいた。男手ひとつで僕を育てた父だ、僕の背中を押し、何かしら手を差し伸べようとしてくれただろう。そんなことを今になって気づくふがいなさ、考えることを放棄した身勝手さ。僕は奈央の気持ちについて 本当に向き合ってはいなかったんじゃないか。「ごめん 奈央。本当にごめん」謝る僕を黙って見つめ返すと、そっと手を伸ばして僕の髪に触れ かつて母がしたのと同じように奈央は僕の頭をゆっくりと撫ぜた。「今、よかった…と思ってた」「瑛士?」「奈央がいて、奈央のここに もうひとつ命がある」奈央のお腹に触れた僕の手に 奈央の手が 添えられた。唐突に 小さな手の感触を思い出した。「何?」「いや・・。さっき・・・かな?誰か他に来た?そう、ちょっと小さな・・・子供、とか」奈央は不思議そうに僕を見、思い当たることを探すように目線を動かした。「私は誰も見なかったけど?ここ 瑛士一人だし」今は入院患者がベッド数より 少ないらしい。二人部屋のこの病室もひとつは空きベッドで 僕の個室状態になっている。そうか勘違いだ きっと。夢を見ていたんだ。「やっぱり ちょっと疲れているのかもしれない」情けない顔で笑いかける僕を 奈央がちょっと不安そうな目で見る。廊下に向かうドアが小さく開いている。長い髪を二つにくくった女の子がちらっと顔を覗かせ、ドアの陰に消えた。レースの着いた白いパジャマに小花柄のカーディガンを羽織っていた。*少し眠ったのだろうか。目を覚ましてもどこからどこまでが夢なのか ぼおっとした頭では判別がつかない。頭をおこし周囲をゆっくり見渡した。やっぱり夢じゃない、さっきと同じ病室の白い壁。ふと目をやると また少し病室のドアが開いている。前の廊下を看護師さんが ドア越しにこちらをちらと見ながら 通り過ぎた。閉めに行くのも面倒だし…と 向きを変え寝なおそうとした時 ベッドの下あたりでゴトンと何かをぶつけたような音がした。不審に思って音のした方を覗き見ると 「いたた、頭 打っちゃった」女の子が ひょいとベッドの下から顔を出した。ドアの向こうからこちらを窺っていた あの子だった。女の子は神妙な顔をして廊下の方を窺い見たあと、しーっというように 唇に人差し指をあて「こんにちは」ぺこりとお辞儀をし、親しげな笑顔を見せると 声をひそめて言った。「かくれんぼでもしてるの?ひとの病室で」女の子は首をすくめるだけで 僕のその質問には答えず、「そっち 行っていい?」まるで前からの友達に言うみたいな言い方で 窓際の見舞い客用の椅子を指した。サイドテーブルに置いた雑誌や奈央の持ってきたマグカップなどを 女の子は遠慮なしに手に取ったり眺めたりしている。「僕に何か用なのかな?」入院患者なのは格好から解るが けがをしている様子でもないし、顔色も特に悪くない。華奢で色白なだけで特にどこか悪いという風にも見えない。「それとも君、実は僕の知り合いとか?」答えのないまま 更に声を掛けると やっとこちらを向いた。「うーん そういうのでもないけどね」そう言いながら 椅子にどさっと座り、うーん、と伸びした後、その子はいたずらっぽい目で僕を見た。考えてみれば ほとんど子供と接したことがない。一人っ子だったし 近所や学校でも年下と遊ぶことはなかった。急に同じ部屋に初対面の女の子と二人きり、何を話せばいいのか全く思いつかない。そんな僕の戸惑いなんかお構いなしに 今度は女の子の方から唐突に話しかけてきた。「ねえ瑠璃って漢字、書ける?ルリ色の」いきなり何の事か解らない僕に「ル・リ」ゆっくり音を切って 女の子はもう一度言った。「難しい字だったよね、確か」何でルリ? 思いながらも 言われるまま指で空に書きかけると 彼女がその小さな手を差し出した。手のひらを上にして「ここ、書いてみて」僕が先に「留」の字を先に書きかけて止まり、偏を考えていると くくっと笑う。「あ、大人なのにわかんないんだ、こうよ、『瑠』」「リ、なら解るよ こんな・・」「違う、違う。こう。」僕の間違いを訂正し 大人びた口調で女の子は言った。「ほんと、そんなんじゃ 困るなぁ」何が困るんだ。ちょっとプライドが傷ついて、大人げなくムキになる。「大人だって 難しいさ。」女の子は僕の手の平にその細い指で「瑠璃」と書き 得意げに笑う。「ガラスのことでもあるのよ。透明で純粋で大事にしないといけないもの。そんな意味を込めた女の子の名前。」「ふうん・・・。そっか、いいね。きみの名前?」「覚えていてね、とてもいい名前だから・・・瑛士くん」ちょっと戸惑うくらい 真剣な目をして 彼女はゆっくり力を込めて僕の名を呼んだ。何で名を?しかも「くん」付けで。聞くより前に彼女は ベッドに付いている振り仮名のついたネームプレートを指してまた ふふふと笑った。 「瑛の字は水晶。透明で純粋な宝石、美しいわたしの大事な宝物」ゆっくりと歌うように彼女は言った。*次に彼女が僕の病室に現れたのは 奈央の来た日だった。奈央が帰った後ひと眠りして目が覚めると 誰もいない隣のベッドのカーテンの中から にゅっと顔を出し僕に聞く、「今日来てた人が奥さん?」籍は入ってないとか まだ一緒に住んでないとか 子供相手に説明するものでもないかと曖昧に「うん」と返事した。「お父さん」「え?」「・・・なんでしょ?あのひとに赤ちゃん生まれたら」「あ・・ああ」  「お父さん」の言葉に情けなくもうろたえた僕は 話が続けられなくなって黙ってしまった。そんな僕を横目で見、彼女はくすっと笑った。「何か 心配?」年上のひとが相談に乗るから言ってごらんとでもいうように 彼女は先を促す。これこそ子供相手にする話じゃない。「大人にだって色々あるの。僕自身もまだ言葉にできないことがいっぱいだ」誰に対し何をごまかしてるのか自分でも解らないような返事をして目を逸らした。「あ、こらこら またこんなところまで来て」ガラリと病室のドアを開け 声を掛けたのは 病室の掃除係の西川さんだった。「看護師さん探してたよ。すぐに病室から居なくなるんだからって」「わぁ、怒ってた?」「早く戻った 戻った」西川さんに背中を押され 名残惜しそうな顔をしながら 女の子は僕の部屋から出て行った。*3つ年上の奈央と知り合ったのも2年前の夏だった。飛び込みで営業に行った先で、全く相手にされず、その会社の傍の木陰のベンチで 途方に暮れていた。その時 声を掛けてきたのが奈央だった。「お昼 食べたいんですけど、ここ いいですか?」奈央はベンチの隣を指さし ちょっと怒ったような口調で聞いてきた。「退け」ということなんだろうかと思ったが 暑さと疲れでなかなか立ち上がれないでいると、僕の返事なんか関係なしに彼女はそこに座り サンドイッチのパックを出して黙々と食べ始めた。─社内食堂とか洒落たカフェとか もっと涼しいところがあるだろうに。さっきあのオフィスにいた人だ。目鼻立ちのくっきりしたその横顔は印象的で、見てすぐに解った。 「私、いつもここで食べるんで」奈央はにこりともせずに言うと、唐突に「飲みます?」と水筒のフタに入れた冷たいお茶を差し出した。「有難う」思ってもいない展開。だけど冷たいお茶はこの状況では凄くうれしくて 受け取って一気に飲んだ。「これ 冷たくて気持ちいいですよ」次に 奈央は鞄から冷やしたハンドタオルまで出しくれた。よく冷えたお茶とおしぼり。隣に座るぶっきらぼうな美人。何だか疲れがすっと引いて 思わず笑いがこみ上げた。お互いの部屋を行き来するようになっても 恋人と言っていいのかどうか いつまでも自信が持てずにいた。「家族」にいい思い出がないとか 結婚に夢が持てないとか先に奈央がそんなことばかり言うので どんなに付き合ってもどんなに好きになっても、「結婚」なんて言ったら 笑い飛ばされるか黙って逃げ出されるかもしれない。そんな風に思えた。だから 急に子供ができたと切り出されることなんて 想像もしなかったのだ。奈央の部屋で思っ切り下らないB級ホラーのDVDを観て 次は何観る?と聞いたら「子供ができた」お腹に手をおきながら 奈央がいきなり暗記した数式でも言うみたいに言った。そして、僕の驚いた表情とその後の戸惑うだけで言葉の出ない様子を 黙って観察するような目をして見た後、奈央は僕の頭をくしゃくしゃと触ってから立ち上がり テーブルのビールの缶や皿を黙々と片付けた。そして何も言わないままキッチンへ行き 洗い物を始めたのだった。水の流れる音とスポンジでこするかすかな音以外、ほとんどしないような静かな洗い方で、奈央の後姿はまるで どんな言葉も今は受け付けないと言っているように思えた。でも 今思うとそれも 僕の都合のいい「思い違い」だったかもしれない。その時奈央の気持ちが 僕には全く解らなかった。「仕事もまだ契約だし」「時間にも気持ちにも 余裕なんてないし」立てつづけに言ったのは奈央の方だった。「これからのことなんて まだまだ解らないし いきなり父親なんて」シンクの方を向いたまま 奈央が言い続けたのは僕のことばかりで しかも「父親になれない」理由ばかりだった。「何だよ、それ」 僕など全然頼りにならない、社会人としても人間としても未熟だと そう言われている気がした。「自分の子供の父親としてふさわしくないって?僕のことを気づかうみたいに言って、奈央がまだ子供欲しくないだけなんじゃないの?」トゲのある言い方をしてしまった。一向にこちらを向かない奈央の後ろ姿にイライラした。奈央の言っていることは 当たっている。そして子供を諦めてくれと奈央に言うならきっと 僕が言い訳に使いそうなことばかりだということに 自分自身気づいていた。すぐにこの事態を受け容れて 奈央の身体をいたわるとか新しい命を喜んでみせるとか そういう気持ちになれない自分がいる。そういうことを 僕の戸惑いの表情から奈央は全て、解ってしまったのだろう。向こうを向いたままの奈央が言う。「心配しなくていいよ。瑛士の迷惑になるようなことにはしないから」奈央の動きが止まり、蛇口から流れっぱなしの水が ボウルにたまって溢れていく。シンクに零れる水の音と、開けた窓から聞こえる夏の終わりのセミの声だけが 静まりかえった部屋に聞こえていた。*女の子はあれから数度、僕の病室に遊びに来た。いつの間にか部屋に入り込み 前のようにまた意外なところから 笑いながら這いだしてくる。「まさか 君って幽霊とかじゃないよね、そこのベッドで何かあったとか」ふざけて でも ちょっとそんな風に思えなくもないなぁなんて思いながら言うと 「たちの悪い冗談言うんじゃないの。大人のくせに」咎めるように口を尖らせて女の子は言った。「簡単にこんな所でそういうこと言うのやめなさいよね。大事なひとを亡くすのも、大事なひと残して自分が亡くなるのも そりゃあ 辛いんだから」この子がどんな経験をして 何を判っているのか僕は知らない。そんな風に窘められると 何だか僕の方が叱られた子供のような気持ちになる。「ふざけたことは謝るよ」こんな子供より辛い思いをしたことのないお気楽な人間みたいに言われるのも心外だ。子供との会話は相変わらず下手だと自分では思うが それでも彼女はたくさん僕のことを聞きたがり 質問してきた。問われるまま僕は自分の話を続ける。「そっか お母さん心臓悪かったんだ。あたしと一緒」「きみは その・・・心臓が悪いの?」「気を使わなくってもいいよ。生まれた時からだもの。プロフェッショナル」「でも 大丈夫。私はね、私に生まれてきたこと 全然嫌じゃないよ。きっと 瑛士くんのお母さんもそうだったと思うよ」「一日一日大事だし 色んな人に会うしね。看護師さんや、ほら今みたいに他の入院してる人、大人も子供もいるし、こんなに沢山のひとと出会うってことは めったにできないことだと思うし」「すごいね。そんな風に言えるの すごいと思う」「だから退屈してる暇なんてないよ。毎日楽しいし。瑛士くんは楽しいこと、ない?」「ただ毎日、忙しいとばっかり思ってたな 僕は」本当に生意気なことを言う子だなと その華奢な身体を眺めながら改めて思う。でも何だかその言葉がまっすぐに胸に届いてきて すっかり説得されてしまう自分がいる。母は…母もそんな風に思って生きていたんだろうか。入院を繰り返しながら 生きている喜びを確認するように過ごし 大人になって父と恋をして、周りの心配や反対、自分自身の不安をはねのけて僕を産んだ。妊娠、出産には 母は文字通り命がけだったと聞いている。「赤ちゃんの顔を見たら感激して でれでれになっちゃうよ、瑛士くんって きっと。」幼い日の色々な光景を思い出し少しの間黙っていた僕をじっと見つめた後 まるで僕のことを何でも解ったように彼女は言った。そうだろうか、僕はいつ、ちゃんと『父親』になれるんだろう。「親を選べないんだよ、子供は。僕の子供に生まれて 不幸になったら大変だ」少しは軽く聞こえるように僕が言う。子供相手だと解っていながら この子相手だと素直に本音を言ってしまいそうになるのはなぜなんだろう。「大丈夫。瑛士くんは『お父さん』ちゃんとできるよ。『いいお父さん』になる。心配ないから。ほら」背中をぽんと叩かれると まるで母に相談しているような気になった。「大事なひとと過ごす時間ってね ほんと『宝石』みたいだって思う」確信に満ちた力強い言葉に 胸がつまる。*あれから奈央は仕事が終わると必ず 短い時間でも面会に来てくれた。二人分の身体だと より疲れることも多いのか 面会時間終了の放送がかかるまで 椅子に座った奈央とベッドの僕 手をつないで眠る。今日は僕が先に目を覚ました。子供みたいにちょっと口を開けて眠っている奈央の髪に そっと触れる。眠っていると思った奈央の唇から 呟くような言葉が漏れた。「あの日から 消えるつもりだった」目をつぶったまま奈央は言う。「子供の親の欄に瑛士の名前を書いてもらうだけで充分だ。後は独りで考えて 産むことに決めたら独りで産もう。そう思ってた」髪を撫ぜる手が止まる。奈央の中にそんな決意があったなんて思いもしなかった。「何で?」「迷ってた。私が親の負担になった娘だったから。生まれなければうちの親はもっと自由に生きられた。」「何で そんな・・・」「母はいつもそう言ってひとりで怒って そして泣いた。子供なんていなければ あんたなんかいなければ・・・」奈央のそんな生い立ちを ずっと背負って来た哀しみを 僕はずっと知らないでいた。一緒に過ごしてきた間 踏み込まないのが優しさだと思って 勘違いして そして逃げて来た。「怖かった。瑛士や私がもし この子をそんな風に思ったらって。瑛士が色んな事で無理してるの知ってたし。こんな風に身体まで壊してる時に余計な心配掛けたくない」「余計なんかじゃない」ねぇ 奈央、余計なんかじゃないよ。絶対に。僕は奈央の手をぎゅっと握る。*目が覚めて身体を動かすと 枕もとで紙がカサリと音をたてた。枕の下に差し込まれた小さな紙には 子供らしい字で 短い文章が書いてあった。 「瑛士さま たくさんおしゃべりできて楽しかったです。元気な赤ちゃんが生まれるようおいのりしてます。またどこかで会えるといいね。」「瑠璃ちゃんって 退院したんでしょうか?」部屋にゴミを集めに来た西川さんに尋ねてみた。「ルリちゃん?」「長い髪を二つくくった これくらいの背の女の子で・・ほら、一度西川さんも戻りなさいって声かけてた…」彼女の特徴を説明し 何度か僕のところに遊びに来ていた話をすると「ああ それって 祥子ちゃんだわ。」西川さんはにっこり笑ってそう言った。「祥子?」「そうよ 彼女自分の名前 ルリって言ったの?」「いや…」よく考えてみれば 彼女は自分の名前が「瑠璃」だと言ったわけじゃない。それでも急に、いたはずの少女が まるで存在しなかったように思えて来て 慌てて記憶を整理する。西川さんはふっくらした身体をゆすりながら 混乱する僕の顔を 面白そうに見ていた。「長いこと入退院を繰り返している子だからね。慣れた院の中、勝手にうろうろしては 色んな人と関わってるの。」個人情報は言えないんだけどね、西川さんはそうもいいながら 声を潜めて聞いた。「ちょっと変わった子だったでしょう?おかしなこと言ったりはしなかった?」「おかしなこと?いや・・・まだ子供なのに前向きでしっかりしたことを言う子で・・・」そう 時どき 何故だか母に話を聞いてもらってるような気になった・・・。「誰も迷惑なんかしないし むしろ感謝したり癒されたりするからね。不思議な子なのよね」「それって どういう…?」西川さんは 内緒よ、と手を口に当て声を小さくして僕の耳元で 囁いた。─気持ち 伝えてくれるって噂よ、「ここに居ないひと」のね。昏睡状態のひとや、そう、亡くなった人とか。「伝えるって…?」驚いて声が震える僕に ちょっと慌てて西川さんは付け足すように言った。「ただの噂よ、噂。あの子こっそりあちこちの病室訪ねてたでしょ?情報通にもなるわよね。何かとカンのいい子で…本なんかも相当読んでたから、大人みたい、ううん大人以上に言葉を知ってる子だし。」ああ、そういうことか、ほうっと僕が息をつくと「それでもね、あの子の言葉に救われたってひとって 結構いるのよ。」廊下の先から 他の患者さんの呼ぶ声がして 西川さんは話を切り上げた。「あらあら 私もお喋りだったわね。仕事仕事」ゴミ箱の中身を袋に入れると西川さんは病室から出て行った。僕が奈央に西川さんから聞いた話をすると 「そういえば…」奈央は 静かに微笑みながら僕に言わずにいたことがある、と言った。「産婦人科の診察に最初に行った日に どうしたらいいかわからなくて混乱して 待合の椅子でぼんやりしていたんだ」その時 女の子が近寄ってきたのだという。『赤ちゃん いるの?』そう言って 奈央の傍に座り 『触っていい?』とお腹に触れ近くに耳を寄せてきた。そして 奈央が帰ろうとした時 もう一度追いかけて来て その子は言ったのだという。『赤ちゃん 絶対産んであげてね。生まれたいって言ってる』─ あれは 彼女、「祥子ちゃん」だったんだね。奈央はお腹に向かって そっと語りかけるように言った。*退院後、安定期に入った奈央を連れて田舎に帰った。父は僕らの帰省を手放しで歓迎してくれた。お腹の子のことも喜んでくれて、困った時は力になると約束してくれた。「一人で抱え込むなよ。お前も 奈央さんも」父の言葉が胸に染みる。奈央のお腹に向けて もうすっかり「おじいちゃん」になって話しかける父の姿が可笑しくて 僕と奈央は涙が出るくらい笑った。そして 奈央が眠った後、差し向かいで飲む僕に 父は僕自身の母子手帳を見せてくれたのだ。後の方のメモのページには 母の小さな丸い字で出産前の思いが綴られている。またここで母に出会えたような思いで読み進める。最後のページを捲ると 生まれてくる子供の名前の候補が書きつけてある。いくつかの名前が並ぶ中 男の子の名前のところは「瑛士」に、そして女の子の名前のところには「瑠璃」に小さな丸がついていた。*「どうも 女の子みたいだ」定期健診からの帰り 奈央が言う。最近目立って大きくなったお腹は 細身の奈央にはずいぶん重そうだ。ふたりで散歩がてら公園を通ってゆっくり歩く。雲のかたち、道沿いの草花。季節の移り変わりなんて こうやって奈央と散歩するようになってから気づくようになった。「大事な人と過ごす時間は宝石」って あの子が言ったんだっけ…僕は「祥子ちゃん」のことを思い出していた。「実はさ 女の子の名前 ひとつ考えてるんだけど」僕は奈央に言う。名前を考えてるなんて初めて聞いた、という顔で僕を見る奈央の手を取る。「ルリって・・・ルリって名前。漢字はね、こう・・・・」奈央の手のひらに指で書く。そして 意味はね・・・。公園の大きな木の傍から ベンチの後ろから ひょいとまた あの子が顔を出しそうな気がする。今 僕はきみにとても会いたいと思う。素敵な女性に成長したきみに きっとまた必ず、会える気がする。

ぺんぺん草 花束にして

オリジナル小説、随筆など。fc2「stand by me 」から引っ越しました。

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