電話の 姉のナミエの声はひさしぶりにおだやかだった。
── とにかく一度 お線香くらいあげに 帰ってきなさいよ。大丈夫、もう説教したり説得したりする気も ないからさ。
田舎に残って父母と同居しその条件で結婚相手を探した姉のナミエには 色んなことで迷惑をかけた。語学が勉強したいとか適当な理由をつけて 有起哉が家を出た時,父親は カンカンに怒った。
けれど母親は 姉夫婦が 小遣いとして 月々くれるお金をこっそりためて 有起哉に仕送りし続けてくれた。小さな畑でできた野菜と一緒にそれを送っていたことを後で知ったナミエは 当然だが気を悪くした。
一度も帰らない弟のために そのまま おいておくよりも、小学生になった息子の翔太に 部屋を空けてやって欲しいとナミエが言ったとき.母だけが頑として譲らなかったという。
──好きにしなよ、どうせ帰らねぇから。部屋にあるものは全部捨ててくれたって構わない。
ナミエの電話にそう言い放って、有起哉は連絡を絶った。父親が亡くなったときも 今更長男ですと のこのこ出ていけないと思ったので葬式にも出なかった。そして数年の後 母親もあっけない程静かに亡くなった。電話でナミエと話しているうち またケンカ腰になり,そのまま葬式にも出ず 残されたもの一切いらないと放棄した。どうせ帰っても居場所がないんだ。そう思っていた。
「お母さんの部屋よ」
柔らかい日の当たる小さな部屋だ。陽だまりの畳に母が座って 今にも「おかえり」と声をかけてきそうだった。
「入りなさいよ」
──今更 何を見せたいんだ。
ふてくされた顔で姉に続く。一歩踏み入れて有起哉は言葉を失った。驚いたことに、奥の壁際の一隅がそのまま「有起哉の部屋」だったのだ。
懐かしい勉強机 本棚 ベッドにギター。ポスターや写真の類はさすがに壁にはなかったけれど きれいにまとめてベッドの上に置かれている。母がベッドを使っていたわけではないことはすぐに解かった。
「私が使うんだって、母さん、ひとりで全部運びこんだのよ」
身体の小さな母が 背中を丸めながらひとりでこの勉強机を運ぶ姿を 有起哉は想像した。
「ばかなものよね。母親なんて。」
ちょうど 開いたドアからナミエの息子の翔太が覗く。
「あれ、おじさん久しぶり。なんだ、生きてたんだ」
翔太はニッと笑って、そのまま通り過ぎようとする。
── 母さんには内緒なんだけど、家を出て、大学行きたいんだ。就職もできたらそのまま、そっちでしたい。
翔太が 電話で有起哉に相談してきたのはつい最近のことだ。
「子どもなんて、いつの間にかこんなに大きくなってさ 結局ふらふらどっかへ行っちゃうんだ。」自分より背の高い息子のうしろ頭をパコンとたたいて、ナミエは ため息をついて少し笑った。
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