ラプンツェルの帰還 

第66回 Mystery Circle 参加作品


誰かが見たら、「隠れて住む悪い魔女か鬼」のように思うでしょう。だから絶対に誰にも見られてはいけないの。見つかったら最後、きっと大勢の人があなたを捕まえに来て、もっとひどい牢屋に入れようとするわ。 

そう言いながら、女は 硬い表情を崩すことなくドアというドアのすべてに新たな鍵を取り付けた。窓は、窓とは言ってもすべて硝子が無く木の板を打ち付けたものばかりで外が見える場所は無い。女がドアの鍵を閉めて出て行った後、静まり返った家の中、小さな女の子は獣がうめくような声を出しながら床を這いずり回った。風の音だけが響く寂しい夜だった。

 ──あなたはお馬鹿さんだから 心配なのよ。 

──外に出たら悪い人に騙されて、ひどい目に会う。あなたを守れるのは母さんだけ。そうよ、あなたの味方は母さんだけなのよ。 

女の子は黙って、白く美しいその優しい手で頭を撫でられながら、抱きしめられながら、呪文のように繰り返されるその言葉を聞いていた。言葉の意味はよく解らなくてもこの人だけが自分を守ってくれるのだ…そう信じる、そんな目をして。

 ──だから 母さんを悲しませないでね。母さんは誰よりもあなたを愛しているのよ。心から大事に思っているわ。 

この家がどんなところにあるのか、外観がどんな建物なのかなど、女の子は知りはしない。いったい何があって 今ここにいるのかもよく分からない。何故「母さん」が自分をここに連れてきたのか、なぜ「母さん」が自分をここに置いてどこかへ行ってしまうのか 全く解らなかった。

 真っ白な雪景色、暖かい部屋。桜色の花の下、涼風に揺れるカーテン、夕焼け…瞼の裏に時折ぼんやりと映像が浮かぶ以外 女の子の記憶は空白しかない。それを表現する「言葉」も今の彼女にはない。 もともと消えそうだった僅かな電気がつかなくなった。寒くはなかったが 暗闇は恐怖心をあおる。いつも女の子は息を殺して「母さん」の帰りだけを待っている。 いつの間にかそのひとが来て、呻きつかれて眠っている女の子の傍のテーブルに 四角いトレイにきれいに盛り付けられた食事を置いて行った。かわいい洋服や髪飾りが置いてある時もあったが女の子には興味が無い。寒さだけ防げればどんな格好だって構わなかった。 

それでも絵本を見つけた時の表情は違った。初めは表紙をそっと触り、眺めるだけだったが、ページを開くことを知る。開いたページひとつひとつに新しい色が、風景が、世界が開けた。文字は読めなかったし「ことば」の持つ意味でさえ解らなかったが 少しずつ平面で繰り広げられる「絵」というものが周囲のものを模し、象っていることを理解していく。女の子はいつもページごとに描かれたものを長い間飽きずに眺めていた。絵本の世界だけが女の子をこの場所以外の世界に連れて行ってくれるのだ。 そうやってこの家で目覚めたその日から、一人きりでいても女の子は少しずつ 「獣」からヒトになっていった。もとよりヒトとして暮らしていた幸せな時期があったのだろう。 「言葉」や「文字」を、周囲の「ひと」とのつながりの中で 使っていたことを少しずつ思い出す。

 **

 ぼくは彼女を助けたかった。僕は彼女を助けることができるだろうか。そしてそれは、ぼくの救いになるだろうか。

 ** 

ある日 きみは偶然寄りかかった廊下の突き当り、飾り棚の後ろに隠し階段を見つけた。階段を上り詰めるとただの短い廊下があるだけだったが、その薄暗い廊下の天井にきみはちらちらと仄明るいものを見つけた。高い天井の一角に四角い形が確認できる。その四角い形の回りから 細い明かりが差し込む。時間によって差し込み方や光の柔らかさ 色あいが変わることにきみは気づく。

最初はその変化を眺めるだけでもなんだか秘密の友達ができたように嬉しかったのだろう。時にはその隙間から冷たい隙間風が入ったけれど、きみは一日中でも 廊下に寝そべって 天井の片隅を眺めて暮らしていた。こんなささいな楽しみさえも見とがめられそうな気がしたのか きみは「母さん」に見つからないようにしようと 彼女の来る気配がする前に 必ずそこから離れるようにしている。何もかも 「母さん」の言う通りにすればいい、という信頼や依存は少しずつ崩れている。きみの世界に小さな風穴が空けられたようだ。 

カサリコソリとその「四角」の上から音がするだろう? ねずみかときみは思ったろう。といってもきみは与えられた絵本の中のねずみしか知らない。「くるみ割り人形」の絵本では 怖い敵役だった。ほかの物語では優しい友達だった。怖いけれど会ってみたい。一緒に住んでいる「生き物」がいるとしたら それは素敵なことだ。 

数日後のある日、きみは運んできた椅子に上り手を延ばす。高い天井にはそれでは届きはしない。きみはそれでも諦めず 何度も背伸びを繰り返す。やがて疲れてまた 廊下に寝転んでそのまま眠ってしまうのだ。

けれどきみは次の日、先の傷んだ箒を持ってきた。それでも箒の先が天井に届かない。もっと長いものはないか探し、紐とモップを探し当てて苦心した末何とかつないで更に長い棒を完成させた。この家には 以前居たひとが残していった様々な生活道具がひっそりと残されている。

目的を達するために 道具を工夫するきみを見ながら 知恵、という言葉をぼくは思う。 こん、と 出来上がった長い棒で突つくと四角い明かりの筋が動き、広がった。屋根裏の部屋があることにきみは気づく。これが入口の蓋になっているのだろう。その上に光と風がある。そして 何かがいるのだ。逸る気持ちを抑えているのか きみの頬が紅潮し 目が輝きを増した。 押し上げられて蓋がずれると きみの思ったとおりそこには柔らかな光の入る屋根裏の部屋が見える。不安定な椅子の上で背伸びし、きみは上に上がる努力を続ける。せめてどんな所なのか見たいのだろう。大きな梯子でもあったら良いのだけれどね。椅子を積むのは止しなよ、危ないから。 思案するきみは目の前に揺れるものを認める。もともと上るときに使っていた太い紐だ。驚いて見上げる。

大人ならもう少し大きい脚立とこの紐があれば簡単に屋根裏に上がれる。紐の先に手を掛け思案するきみに向けて ぼくの口から 風の音に消えてしまいそうな か細い声が出た。 

「上ってくる?」

 紐を手繰って上っていくと そこはほんの小さな屋根裏部屋だ。小さな明り取りの窓がひとつ。それぞれの段ボールからは誰のものだったのか、人形や本が覗いている。きみはさっきの声の主を探す。ぐるりと周囲を見回した後、きみは部屋の片隅のぼくを認めた。まっすぐ濁りの無い目でじっと見つめるその表情からは ここに来て以来「母さん」以外のものを見る小さな驚き、言い聞かされて心に根付いた他者への恐怖心 それを超える強い好奇心が見て取れた。 


「きみには ぼくがわかるんだ…」 

きみは答えない。表情の変化から「聞こえている」ことは解る。意味は届いているのだろうか。きみはぼくに「危険」を感じなかったのだろう、少しずつ前に進み出て ぼくの前に立ち、ゆっくりとその手を差し出した。ぼくの体にその華奢な腕の細い指がそっと触れた感触が確かにあった。ぼくの頬に「温かい」涙があふれ出す。きみがぼくを認めることで ぼくは存する身体を、温もりを感じることができた。長い間消えていた「ぼく」はきみにもう一度生かされた。 

──ありがとう、ぼくはここにずっと居たんだよ。今気が付いた。ぼくはずっと誰かに見つけてもらいたかったんだ。きみはぼくに会えてうれしい? 

きみの柔らかい長い髪が屋根裏の小窓の光を受けて きらきらと輝く。きみの瞳に今まで見られなかった色が浮かぶ。安心、慰め、親しみ、愛情…それらにきっと近いもの。 忘れかけていたぼくの幾多の感情も蘇る。表情というものもきっと以前のようにあるだろう。暗い閉塞した穴の中に新しい風が生まれ、生命が一斉に芽吹いたような、そんな素晴らしく美しい瞬間だった。 

その日からきみは屋根裏部屋に上がってくるようになった。 

** 

その屋根裏部屋には小窓があった。硝子のないぽっかりした穴のような窓だ。雨や風はさほど入ってこない作りにはなっているようだったが、冬は相当寒いに違いない。いつからずっとそこにいたのだろうか、その不思議な住人はそれでも特に不便を感じてはいない様子だった。 椅子を運び、その上で背伸びするとやっと少しだけ 外を見ることができる。高い場所から 私は毎日空の様子を、遠い地面を少しだけ伺う。 母さんが遠くの坂道を登って近づくのが見えたら わたしはここから離れる。 

屋根裏部屋にいた淡く光る輪郭を持ったその不思議な少年は自分の名を「からす」と言った。「ねずみじゃなくて残念?」とも。 

彼と毎日屋根裏部屋で会うことで わたしは忘れていた「ことば」を取り戻していった。最初はぼんやりと彼の口元と口から発せられる「音の流れ」とその表情 手振りを見ていた。彼は屋根裏部屋にあるたくさんの箱から絵本や画用紙、クレヨン、人形などを探し当て それらを使って根気よく言葉と絵とのつながりをわたしに教えてくれた。 

何かのきっかけでわたしは記憶と言葉を失っていたのだろう。彼と会うことで わたしはさまざまなことを思い出してまた「ひと」に戻る。拙い会話を繰り返すうちにわたしは「かりん」という名前の女の子に、透明で消えてしまいそうだった「からす」は、はっきりとした輪郭を持った少し年上の少年になっていく。 

わたしの言葉を取り戻すのに、彼が使ったのは絵本だった。

「ラプンツェル」。

小さな子供向けに簡単な物語にしたものだろう、短くて文字の少ない、でも絵は見飽きない程美しかった。彼は絵と実際の部屋や窓 お人形や自分自身を巧みに使って 物語を紡いでくれた。何度も何度も繰り返し 塔に閉じ込められた女の子と閉じ込めた魔女、魔女の目を盗んで塔に登ってくる王子の会話を私にしてくれた。 わたしの指に彼が手を添えて、一文字一文字をなぞるようにして読む。いくつかの文字の塊を指しては、絵や部屋の中の物、身体の部分や動きを交互わたしに示す。最初はぼんやりと彼のすることを見ていただけだったが、やがて彼がわたしに何を教えたいのか、思い出させたいのかが朧げに解ってきた。深い霧と闇の向こうから 彼が呼んでいる。声のする方向にきっと光がある、わたしはそれを信じて一歩ずつ手探りで進んで行く。 

「ラプンツェル、ラプンツェル。おまえのかみをおろしておくれ!」 

絵本で繰り返される言葉を覚え それが屋根裏部屋に登る時 紐を下してもらう合言葉になった。物語の意味が分かり始め、彼が繰り返し読むその絵本の、ラプンツェルという名の髪の長い女の子と王子に わたしは「からす」と自分自身を重ねた。立ち位置は逆だったけれど。 

すっかり からすにな馴染み、わたしが言葉を取り戻したある日、「母さん」が屋根裏部屋のわたしたちに気づいた。そして からすもまた「母さん」を間近で見ることで たくさんの自ら消していた記憶を取り戻したのだ。まるで雷が落ちたように。 「…ラプンツェル」 からすは紐を手繰って屋根裏に登ってきた母さんと長い間黙って見つめあった後、かすれた声で そう言った。 


** 

「『ラプンツェル』なんかじゃないわ。」 

「そう、きみは『ラプンツェル』じゃなく『つぐみ』。ぼくは『からす』だ」

 封印していた記憶が鮮やかによみがえる。 この屋敷にかつて閉じ込められた子供たち。つぐみにからす、ひばり、それからひいらぎやかえで。それは ただナンバーように割り振られただけの 思い入れ一つない思い付きの呼び名。つけたのは時々やってくる冷たい目をした『先生』だった。僕たちは彼がきらいだった。怖かった。 

「そして 同じことをきみはこの子、かりんにもしているわけだ」 

ラプンツェル、いや、つぐみは俯いて 唇を噛む。 

「外の世界で王子様と幸せになれなかったんだね? かりんはきみのこども?」 

「ここを出て幸せになった子なんかいないわ。きっと」

 「ここにずっと居て、居るしかなくても 僕は幸せになれなかったよ。つぐみ」 

つぐみは前に進み出て 深い空洞のような目のまま僕をじっと見た。 

「こんな風になってもなお…あなたは生きている。あの日からずっと?…そうなの?」 

「これを『生きている』というならね」 

僕は泣きそうになりながら笑う。

 **

──きみにもうひとつの「ラプンツェル」の話をしよう。聞いてくれるかい? 

母さんの視線を逃れて後ろに隠れた私の方を振り返り からすはそっと私の頬に触れた。

「やめて、聞きたくない」 

母さんが遮ろうとする。白い顔が更に青白く見える。 

「この子には知る権利があると僕は思う。こんな風に閉じ込めたって幸せにはなれない。解っているくせに」

「やめて、やめて」

 母さんは震える声で叫ぶ。 

「やめて、やめて、やめて」 

その言葉しか知らないかのように母さんは言い続けた。だんだん声が掠れ力を失い 母さんは床に崩れ落ちた。 からすは そんな母さんを静かに見下ろしながら 絵本を読み聞かすように私に語り続けた。

母さんはもう「やめて」とも言わず俯いて泣いている。

 **

どういうわけなのか その子の親にさえも解らない、「能力」を持ったこども、というものが生まれることがある。親はその赤ん坊を扱ううちに気づくのだ

──この子は普通の赤ん坊ではない、何かとてつもない力を持っている。

恐ろしい、得体のしれない生き物。ある親は恐れ、ある親は拒否し遠ざけようとさえするのだ。 自分の力がどういうものかも知らず、コントロールすることもできない子供たち。いつか何かのきっかけでその力を暴発させかねない。

 ──きちんと注意して育てないといけません。あなた方の手には負えない。 

どこからかその子供の存在を嗅ぎつけて現れる「使者」は 親に言う。この子は危険です。隔離しなさい。 

そうやって、あるいは親自ら手放すことを望み、置き去りにされる「特殊なこども」が その丘の上の「塔」に集められ 外の世界を知らないまま一緒に暮らしていたのだよ。 そう、それが つぐみや僕だった。 ぼくやつぐみのように小さなこどもは 自分にどんな力があるのかも知りはしない。「外のひとたち」と自分のどこが違うのかなんて知らない。ぼくに至っては「外のひとたち」を見たことすらなかった。

真っ黒な布に包んで捨てられていた、真っ黒な髪と黒い瞳の、泣かない赤ん坊。そう、年上の「なかま」がからかい気味にぼくに言った。だから「からす」なんだよ、名前に親と繋がる由来があるだけいいじゃないか、とも言った。 その年上の子は「モグラ」と呼ばれていた。ずっと目を閉じていたが、目が見えないのではなく「見えすぎるからだ」と自分で言った。幼い僕が無遠慮にしつこく聞くと気難しい彼が嫌な顔をすることは解っていたので 僕はそれ以上聞かず、彼の様子を観察し、推測した。年上のこどもたちが何人もいたが、彼のようにはっきりした特徴がある者は少なく、とりたててどこにどんな力を秘めているのか解らない者も多かった。 そして各々 毎日何かの訓練や勉強の時間があり、やがて迎えの車が来てどこかに連れて行かれ、そのまま帰らなかった。 


「ラプンツェル」の話がまだでてこないときみは思うかもしれない。僕にとっては辛い最後の思い出なので どうしても後回しになるね。今から話すからもう少し聞いてくれるかな。 

この屋根裏部屋を見つけたのは僕だった。ちょうどきみのような具合でね。面白いくらい同じやり方で ぼくはここに登り「外の世界」を眺める。ああ、だけど元は分厚い硝子が嵌っていたよ。 同じ年頃で仲良しだったつぐみにそっとその秘密の屋根裏部屋を教えたのは たまたま他のこどもたちが一斉に何処かへ連れて行かれた日だった。まだ何の力があるのか解らない出来損ないの僕らだけ 家に残されたんだね。 つぐみは目を輝かせて窓に顔を押し付けた。毎日でも外を見たい、僕もつぐみもそう思ったけれど ほかの子供たちや「寮母さん」、「先生」に知られたらきっと禁止される、そう思うと 慎重になった。

「先生」と違い「寮母さん」は優しかったけれど、いつも何かに怯えている感じだった。僕は最初その「恐れ」の相手を「先生」だと思っていたけれど、違うんだ、何をしでかすか解らない 未知の能力を持った小さな僕らがきっと一番怖かったのだろう。皮肉なことに僕らはそれに気づかず、「寮母さん」に甘えたがった。 

「ラプンツェル」と僕がつぐみを呼んだのは あの日からだ。

きみはここへ紐で登ることを物語に重ねていたけれど、そうじゃない。「ラプンツェル」は外の世界の王子と知り合えたんだからね。外の世界から魔女は戻り、塔に登ってくる。それを垣間見た王子もまた外の世界の人で、魔女を真似て ラプンツェルに会いに来る。 そう、つぐみの王子は塔の中の僕じゃなく、窓の外にいたんだよ。つぐみは窓の外に彼を見つけ彼もまた「魔女の塔」と噂される屋敷の屋根裏の窓に、初めて人影を認めたのだ。美しい囚われの少女をね。

 **

私は母さんを見る。泣きはらした目をして ぼんやりと空を見つめている。今まで見たことのない弱弱しい姿。硬い表情で扉の鍵を閉めて出ていくあの強い母さんとは別人のようだった。 

「どうして わたしをここに閉じ込めたの?こどもの頃 母さんたちもここにいたの?ここがいやだったんじゃないの?そとにでたかったんじゃないの?ここにずっといるの、つらかったんじゃないの?どうしてわたしは何もかも忘れていたの?」 

長いことばを話すのにはまだ慣れていなかったので すらすらとは言えなかったけれど 母さんにぶつけたかった言葉はそういうものだった。わたしの口から「言葉」が出ることに母さんは驚いている。わたしがからすから言葉を思い出させてもらったことさえ 母さんは気づいていなかったのだ。いつまでもわたしが 置き去りにされたこどもの獣のように暮らしているとなぜ信じたのだろう。このひとは。

 **

かりんの口から言葉が発されるのを聞いて 私は身震いした。

思い出したのだ、この子は。言葉を?それとももっと たくさんのことを? ふらふらする身体を起こし かりんに近づく。触れようとする手にびりりと電気が走った。かりんの目が異様な光を放つ。

 「自分が何者か解っていないのよ、この子は。このままだと恐ろしいことになるわ」

 からすの方を向いて私は叫ぶ。風も無い屋根裏部屋の中でかりんの髪が生き物のように浮き上がって揺らいでいる。

あの時と同じだ。床が揺れ、壁や天井が嫌な音を立てた。 からすはかりんの様子で察知するはずだ。私がかりんを閉じ込めた理由を理解してほしい。 私たちの仲間の中にも居た。不幸にもとてつもなく大きな力を持って生まれたこども。「破壊神」と年かさの子供たちは呼び 彼の感情の変化を恐れた 

** 

「かりん」 

ぼくはつぐみの言葉を制し 低く静かな声でかりんに呼びかける。かりんの力が暴発する前に沈めないといけない。きっとその力を出し切って、抜け殻のようになったまま彼女はここに連れて来られたに違いない。何か彼女の身に起きたのだ、言葉と記憶を失うほどのことが。そしてつぐみが恐れたのは その力を彼女が自覚しておらず、抑えることができないということだったのだろう。 

「かりん、かりん。お願いだ こころを沈めて…」

ぼくは、彼女が喜んだあの「ラプンツェル」の物語の 呼び声のように節をつけてささやく。きみに聞こえるだろうか。 ** 遠くから何度もわたしを呼ぶ、からすの声が聞こえた。身体を包み込んでいた熱のようなものが徐々に引き、内側から燃えるような熱いものが冷めていくのが自分でも解った。足に力が入らなくなって倒れそうになる。からすが駆け寄って支えてくれた。

 **

「…下降りよう。お茶でも…入れるわね」 

力尽きた表情で私が言うと、からすは悲しそうにくっくと笑った。 

「ぼくがどうして今までここに居たと思ってるの?こんな姿で?」 

そうだ、からすは私より年上だったはずなのに その姿は最後に見た彼のままだった。 この屋敷には「普通でない」こどもが大勢居て、「普通ではない」力を見せられる場所だった。少年のままの姿で屋根裏に未だ居る彼を見ても違和感を感じなかったのは この場所の持つ特殊さに感覚が麻痺してしまうのかもしれない。 

「ぼくときみ、小さい子供たちの幾人かだって 自分のどこが特別なのかも知らなかったんだ」 

「私は未だに解らない。何もできない。貴方はこんな風に生きることができた、それが『力』だったという訳?」

 「覚えてる?切り傷、擦り傷、熱や病気 ぼくはどれも一瞬で回復した。一緒に色々試してみたよね。」 

それに気づいた僕は、つぐみにナイフを持たせ傷をつけさせた。最初は怖がって嫌だと言っていたきみも徐々に慣れた。 

「いいんだ。ぼくらにとっては何も残酷な遊びじゃなかった。ぼくたちは退屈で…寂しかった。僕は自分が何者なのか知りたかった」

 黒い布に包まれて捨てられたのも、僕を必要としなかった親が、傷つけても傷つかない 殺めても殺めきれない赤ん坊を不気味に思った末だったのだろう。それともそんなことすら気づかないまま、ただ不要だっただけなのか…。

つぐみがここを抜け出せたあの日から 僕は自分の存在をどうやって消せるのかばかり試してきたんだ。 

「気づいたんだよ、傷やダメージでも死ねないけれど、少しずつ消えていけることにさ。その代償にここから動けなくなるなんていうのは 予定外だったけどね」

 呆けたように座り込んでいた かりんがふらふらと起き上がった。


 **

からすと母さんのやりとりの中「傷」「傷つける」という言葉の繰り返しに、何か思い出さないといけないものを感じる。真っ黒の背景。鮮血。恐怖。後ろから延ばされた誰かの手。 わたしは何をした?わたしは何者だ?きっとわたしは恐ろしいことを忘れている。 

フラッシュバック。 たくさんの断片的な記憶 気味の悪い声や、歪んだ映像や黒い気持ちの渦が迫って来た。頭が痛い。目を開けていられない。立っていられない。ここはどこだ。そこにいるのは誰だ。私は何者だ。

目をつぶったままなのに ざわざわとひとの気配が押し寄せる、こどもたち、孤独、恐怖、持て余す力 満たされない心 あなたたち、あなたたちは わたしと同じ。 

そうだ、わたしに襲い掛かった知らない男は 一瞬にしてはじけ飛ぶように倒れた。男の周りに血が流れ出た。

「見ちゃいけない!」

母さんはわたしの手を引いて走ったのだ。走って、走って、走って。

 ──だめだ、今 思い出すな! からすが叫ぶ。

母さんの悲鳴。激しく震える壁、天井、落ちてくるもの。裂けるように割れる屋根裏部屋の床。

わたしは何者だ。母さん、母さん、母さん。 助けて。


 **

丘の上にかつてその石づくりの屋敷はあった。 身寄りのないこどもたちが暮らしていると言われていたが、彼らが庭に出て遊ぶ姿は誰もみたことがない。魔法使いの家だとか悪魔が住んでいるのだとか 村のひとたちは噂した。 何を目撃した者がいたのか、ひそかに集められているあの子たちは 奇妙な力を持っている、近づくと恐ろしい目に遭う怪物だ。近づくな、関わってはいけない。 

それでもある日 村の青年が初めて、一番高いところにある窓に女の子の影を見る。美しい少女だった。あの子が悪魔や魔女であるはずがない。閉じ込められたかわいそうなラプンツェル。 青年は窓に一番近い 高い木に登って 毎日彼女に呼びかけた。遠い窓越しで声も聞こえなかったが 寂しそうな目をした少女は 毎日やって来る青年に親しみを覚え、次第に彼の来るのを楽しみに待つようになった。彼の姿を見てはにかみながら微笑むようになった。 だが、ある日少女の後にいるもう一人の姿を見たとき 青年は身震いする。黒い髪黒い服 暗い目をした、あれは子供の姿をした何か。あれこそ悪魔か怪物に違いない。 「ラプンツェル」をあの場所から逃がしてあげたいと青年は思う。でもどうやって? 


**

異変は別のことで起こったのだ。強い感情を爆発させると周囲に破壊をもたらすと言われていた少年が、その日誰かと衝突したのだ。彼の底知れぬ力に皆は恐れを抱いていたのに、何が原因だったのだろうか。彼の小さな身体のどこからそんな声が出るのか解らない程 高く響く声が長く長く続き 屋敷の硝子という硝子が一瞬にして砕け散る。喧嘩の相手は弾き飛ばされて倒れた食器棚の下敷きになった。細かい硝子の破片が周囲に居た子供たちにも降りかかっていた。階下の騒ぎは酷かったが、屋根裏部屋の二人は硝子が割れた小窓を前に事態が呑み込めず沈黙していた。いつものように窓際にいたつぐみを、突き飛ばして庇ったからすの全身に尖った硝子の破片が刺さっていた。 

「知ってるでしょ?ぼくは大丈夫。傷はすぐ消える。」 

震えて泣くつぐみにからすはそういうと、空洞になった窓を指さした。

 ──こんな時のために用意はできているんじゃなかったっけ? 

「大丈夫、ぼくは 死なない。きみは先に自由におなり」 

いつかここから脱出する夢を見ながら、二人でこっそりと集めた布を裂いて繋いだ、長い長い紐が、屋根裏には隠してあった。そして窓の下には 何が起きたのか心配そうな顔の「外の」彼が待っている。 

「下が騒いでいる間に 早く」 癒えるのは解っていたが 傷だらけの痛々しい姿で倒れるからすを残していくことはためらわれる。

「一緒に…」

手を延ばしかけた時 「寮母さん」が二人を探す声が聞こえた。

「早く! 今しかない!」

 紐の一方を持ち、もう一方を差し出して、からすが苦しそうにゆがめた顔で叫ぶ。


 **

ラプンツェル、ラプンツェル。外の世界で幸せになれた? きみの「力」は 結局何だった? 

 崩壊した屋敷から逃げた子供もほかにいたかもしれない。あるいは行く場所も持たず、「外」で生きる術も無く、こどもたちはまた別の場所で同じように暮らしたのかもしれない。

屋敷は釘打たれ、閉じられた。屋根裏部屋はそのまま忘れ去られた。


 **


僕は今 かりんと共に居る。すさまじい轟音と共に屋敷は崩壊し、僕はあの部屋から解放された。

ぼくの姿はもう誰にも見えないだろう。意識だっていつまであるのかも分からない。それでもいい、と思う。こんな不死なんて望まない。 だけど、つぐみ、できるだけのことはするよ。かりんが自分の力を知りコントロールできるまで支えていく。また力尽きてたくさんのことを忘れたら 何度でもまたやり直す。

 丘の上の瓦礫の中でつぐみの衣服の切れ端を見つけた。つぐみの姿はどこを探しても見つからなかった。長い間立ち尽くした後、ぼくたちはその切れ端を、かつての「彼」の登った木の根元に埋め、葬った。幸せになれなかったラプンツェル。ぼくたちはどうしてこんな風に生まれてしまったのだろう。答えはどこにも無い。誰も教えてはくれない。 


「つぐみの『力』はこんな風に跡形も残さず逝ってしまうことだったのかな。まるで煙みたいに…」

 ──そして きみという計り知れない力を秘めた存在を産み出す役割が…でも今はそれは言わないでおこう。

 「でも」 

押し黙ったままだったかりんが さっきからずっと繰り返し考えていた言葉を口にする。

姿の無い僕の言葉にかりんは自然に答える。これからどれくらいの時を僕らはこうやって生きていくのだろう。 

「こうも想像できないかな。母さんはどこかの裂けめや歪みを通って別の時間や別の場所に行った…。そんな『力』を持っていたのかもしれないって」 

泣きはらした瞳で、まっすぐに丘の遥か遠くの空に向けたまま かりんは僕に言う。それは祈りにも似ていた。 

「行った先の世界が つぐみにとって生きやすい 幸せな場所ならいいね」

 僕の願いはあの時からずっと同じだ。 


「いつか 会えるかな」

 「きっとね」 


丘の上の高い空で 名前も知らない鳥が 一声高く鳴いて飛び去った。  

ぺんぺん草 花束にして

オリジナル小説、随筆など。fc2「stand by me 」から引っ越しました。

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