第49回 Mystery Circle 参加作品
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「仲間に入れて欲しいな」
朝子先生はそう言って、時々お弁当の時間やってきた。
「いいよぉ」
「あっちゃんせんせー マジ?お弁当包みキティちゃんじゃん」
「うわ、中身も女子。ね、これ自分で作るの?」
中学に入りたてだった奈央たちは 素直に「あっちゃん先生」を受け容れた。女きょうだいのいない瞳と、一人っ子の奈央は特に、新卒の女の先生が「お姉さん」みたいに思え 気さくに話しかけて来る朝子先生と一緒にいるのが嬉しかった。
プライベートの話やこっそり恋愛の打ち明け話なんかをしながら食べるお弁当の時間が、楽しみだった。他のグループの子たちが お弁当の時間まで先生と一緒なんて…と少し引き気味になっているのもその時はまだ、気にも留めなかった。
いつからだろう。なんとなく心の隅にもやもやした感じが生まれ 先生にチクリと意地の悪い言葉を返したくなる時がある。
──昼ごはんまで「先生」と一緒なんて うっざ。
──あたし今日は別のところで食べるから。
そう言って机を乱暴に押して立ち上がり、立ち去りたい。信じていた生徒に裏切られて先生が傷ついた顔をするのを、冷やかに笑ってやりたい。黒々した気持ちが自分の中、少しずつ広がってくるのを 奈央自身も抗うことができない。そんな思いを押しこめて、表面は誰にでも愛想よく波立たせずやっていた奈央を置いて 先に変わっていったのは瞳の方だった。夏休み明け 瞳の髪の色は明るい茶に、耳にはピアスが光っていた。遅刻が増え 授業を抜け出し帰ってしまう日も多くなった。学校や学年の違う「仲間」とつるみ、警察沙汰の事件に関わったこともあるらしい。随分と解りやすい、解りやす過ぎる瞳の変化。驚いて焦ったのは先生だけだった。諦めずに真摯に接すればいつかまた心を開いてくれるはずだ、そんな先生の「思い込み」と「努力」を奈央達は皆、醒めた目で眺めていた。誰も瞳の本心を聞きだそうなんて思わない。お母さんが仕事で忙しいとかお兄さんが優秀でいつも比較されているなんて 今さら始まったことじゃないしだんだん無口で笑わなくなる瞳を正直 同じグループだった仲間も持て余しぎみだった。奈央も数度 朝子先生から相談された。
「一緒に話聞いてもらえないかな」
「瞳が何か悩んでるのか解るなら教えて欲しいの」
そんな申し出を 奈央はきっぱり断った。
「あたしを巻きこまないでよね、聞いたって無駄だと思うよ。瞳だって放っといて欲しいと思ってる」
先生の困った顔を横目で見ながら、奈央はうすら寒い快感のようなものを感じる自分を意識する。お弁当の時間に瞳がまだ学校に居たとしても もう奈央たちと一緒に過ごすことはほとんど無く 先生も生徒と机を並べて食べることはしなくなっていった。その秋、先生は結婚し、次の年のクラス替えで、瞳だけが名字の変わった朝子先生のクラスになった。
*
遊園地の乗り物の長い列。やっと順番が来たと思った時、目の前でチェーンが掛けられた。口を尖らす美佐を、順番が来るまで宥めてくれた係の女性は、こちらを見て一瞬驚いた顔をした後 はにかんだ笑顔で小さく唇を動かした。
「奈央?」
もうすぐ休憩時間だからと聞き、近くのベンチで待っていると 瞳は遊園地のキャラクターグッズを沢山持って来てくれた。奈央が美佐を「いとこの子供」だと紹介すると
「なんだ。奈央にもう、こんな大きな子がいるのかと思った」
グッズの小袋を開け、何かと美佐の世話を焼きながら 瞳は眩しそうに笑った。飾り気のない見た目は、中学の頃よりずっと素顔に近い。高校を中退し、赤ちゃんができて早くに結婚したと、奈央も噂に聞いていた。その子だってまだお母さんと一緒にいたい年頃なんじゃないかな…自分と瞳の隔たった時間を数えて 奈央は思う。やっぱり「お母さん」になったからだろうか、柔らかい雰囲気になった…視線を合わせて美佐に話しかける瞳の様子を見ながら思っていると、瞳が先に切り出した。
「最初の子、ダメだったんだ。それから、なかなかできなくてね」
予想外のことだった。奈央も返す言葉に詰まる。
「天罰だなって その時思った。やっぱり神様は忘れてなかったなぁって」確かにあの時の瞳の言葉は許されるものではないと、奈央も思う。だけど瞳が言葉に出す前に止めることができなかった時点で 自分だって同罪だ。あれからずっと奈央の心に引っかかっていた。
「だからね、やっと二人目生まれた時は 許された気がした。勝手な言い分かもしれないけどさ」
──その子はばあちゃんに預けて、ここで働いてるんだ。
シングルになって実家の親に世話になっている近況を、瞳はそれでも幸せそうに語った。
生まれてこれるか、来れないかなんて、誰がどうやって決めるんだ。どんなことがあったって、お腹の赤ちゃんには 何の罪も無い。『罰』なんかで奪われていい命なんてない。奈央は出かかった言葉を飲み込んだ。そんなこと瞳だってちゃんと解っているはずだ。ピンクのうさぎの着ぐるみが、少し先の広場で風船を配っている。
「ふうせん!ふうせん!」
叫んで、駆け出して行こうとする 美佐の小さな手を取りながら瞳が続ける。
「あの時、奈央だけが本気で怒ってくれた」
そう、あの時。あの時のことは奈央も忘れることができなかった。─美佐ちゃん、風船貰いに行こうか…ちょっと行って来るね、奈央に声を掛け、美佐を連れて歩いて行く瞳の背中を奈央は目で追った。
*
──リューザンしちまえ。オマエの子供なんて生まれる方がカワイソウなんだよっ。
あの時の荒んだ瞳の様子と、先生の悲しい目を 奈央は忘れられない。2年の2学期の初めの ホームルームの時間だった。
比較的大人しい子が集まった奈央のクラスは、全部くじ引きで係を決めて 何の盛り上がりも無くほぼ全てを終えるところだった。突如、隣のクラスが何だか騒がしくなり、椅子や机が倒れるような音がした。悲鳴のような声と誰かの叫び声。
嫌な予感がした。騒ぎに気付いた奈央のクラスの担任が廊下に走り出、好奇心、訳の解らない動揺、不安や無責任な興奮。少し遅れて数人が立ち上がる。胸騒ぎがして奈央も後の扉から駆けだした。目にしたのは膨らんだお腹を庇うように手を添えて、床にぺたんと座る朝子先生とその前に息を切らして立つ瞳の姿。倒れた机と椅子。黒板に書かれた文字からは、奈央のクラスと同じ係決めの様子が見てとれた。何が引き金になったのか。遠巻きに見つめる瞳のクラスメイトたち。そしてその後、瞳がその言葉を大きく叫んだのだった。悪夢のような光景だった。奈央のクラスの担任が
「何やってるんだ お前らっ」
と怒鳴りながら 朝子先生を助け起こしに入って行き入れ替わりに開いたドアから、制止の声を無視して、無表情な瞳とにやにや笑った顔で数人の「仲間」が出て来た。どうやって とっさに動けたのかは後から考えても奈央自身にも解らない。解らないけれど、出て行こうとする瞳の腕を力を込めて捉えた。
「意味解ってんの?瞳、何言ってるのか 解ってんの?ほんとに解って言ってんの?」
見ている誰にどう思われるかとか、こんなことして瞳やその仲間にこの先何をされるか解らないとかその時はもう、何にも考えていなかった。着崩した制服の 瞳の両腕を掴んで 奈央はただ必死で叫んでいた。一瞬、瞳が奈央の顔をちゃんと見る。表情からは何を思っているか全く解らない。でもその時の瞳を、奈央は怖いとは思わなかったことは覚えている。おびえているような困ったような瞳の一瞬の表情に 今まで知っている瞳の「素の気持ち」が見えたような気がした。その後奈央が覚えているのは 続きの言葉が探せず、壊れた機械みたいに同じ言葉を繰り返していた情けない自分の姿だ。「そんなこと言っちゃだめだ。絶対だめだ。」
瞳は強張った顔のまま奈央を見ていたが、一瞬崩れかけた表情を元に戻しその腕を振り切った。
「奈央には迷惑掛けてないし」
小さい声で吐き捨てるように言い、瞳は仲間の後を追って廊下の先に行ってしまった。
*
「何度も悲しい思いをして産んだ子だって 母から私自身の話 聞かされてたからね」
瞳が近くの自販機にパックジュースを買いに行っている間 奈央もずっと考えていた。
「一人っ子だったよね、確か。奈央ってさ」
奈央にジュースを手渡し、自分のパックににストローを挿して一口飲んでから瞳は言う。
「遠くへ行かないでね、みーしゃん」
風船を手に上機嫌で歩き回っている美佐に声を掛け 目を離さないようにしながらも奈央は続けた。
「うん。小学校の時『生まれた時の話を親から聞く』っていう宿題あったよね。そんな話する時さ、うちの親すぐ泣くんだ」
「よっぽど 嬉しかったんだろうね、奈央が生れてくれてさ。…そういう話、羨ましかったな」
言葉の最後は呟くようで、それだけに瞳の気持ちが強い気がした。まだ こだわっているんだ、ずっとこだわっていたんだ。奈央は思う。
──あたしは失敗作だしさ。
よく瞳が言っていた。優秀なお兄さんだけで親は満足だったんだ、と瞳は良く言った。生まれてきてがっかりされた、とも言っていた。だけど、奈央の場合も 瞳が思っているのとは少し違う。母の涙はそういう意味じゃない。
「ううん、私が生れる前 ずっと辛かったから。母は赤ちゃんが育ちにくい身体でね、何度も流産したり大変なこと色々あっったって。で、思い出して泣くの」
瞳は黙って 紙パックの残りを啜り、箱を奇麗に潰して傍のくずかごに入れた。
「いつも私 思ってた。私もお母さんのお腹の中で育たなくなっていたら…」
生まれてくれて有難う。お母さんはあなたが無事に健康に生まれてくれて本当に嬉しかったのよ、
そんな言葉さえ奈央は何だか素直に喜べなかった。
「お母さんがもう子供を諦めていたら…私の存在だってなかったかもしれないし」
──じゃあ生まれなかった「私」はどこにいるんだろう。
自分がどこにもいないってどういうことだろう。「私」がいなくても世界は同じなんだろうか。いつも 私、考えていた…奈央は続けた。こんな話 誰かにするのは初めてだった。「私」は誰かの生まれ変わりなんかじゃない。誰かの代わりじゃない。でも…母にとってはどう映ってたんだろう。この子は「健康に」生まれないかもしれないと聞かされたら、私はこの世に生まれてこれたのだろうか。そんなことをずっとずっと考えてきた。だから…。
「だから あの言葉だけは瞳に言って欲しくなかった。ううん、誰にも言って欲しくなかったんだ。」
「うん…」
「先生をかばうとか、先生を思いやるとか そんなんでもなかったんだ。私だって…」
奈央だって 心の中は反抗心でいっぱいで、妊娠した先生をどこか意地悪な気持ちで見ていた。
──先生だってただのオンナじゃん。
プライベートの話をしてくれる人間的な先生が好きだったはずなのに、結婚して妊娠する生身の女性を感じて嫌悪する。ひねくれて自分勝手で 繊細とか潔癖とかそういうものを思い切り勘違いしてた頃。─私はみなさんの役に立てなかった。申し訳なく思っています。それが先生の退職の挨拶の言葉だった。代理で手紙を読みあげたのは教頭だった。誰かの役に立つ仕事がしたい、それが先生を志すきっかけだったとお弁当の時間に話してくれた 朝子先生。
「あれからどうしてるのかな、先生。無事に赤ちゃん生まれたのかな」
手から離れた風船が飛んでいくのを指差し、美佐が泣きそうな顔をこちらに向ける。
「なおちゃん、とって、ふうせん、ふうせん どっかいっちゃう」
風船は遮るものもない広い場所で どんどん高く上がっていく。風が吹いてゆらりゆらり流されながら、また更に昇っていく。
「みーしゃん 戻っておいで。ジュースあげるから」
ぐずっている美佐を呼びもどし 先に瞳が買ってくれていたジュースを差し出しながら奈央が言う。「大丈夫、また 風船貰ってあげるね」
風船の行方をずっと目で追っていた瞳も、視線を元に戻し美佐の頭を撫ぜながら言った。半べそ顔の美佐がそれでも気を取り直してジュースを飲む様子を 奈央が黙って見ていたら
「見る?結構イケメン」
そう言って瞳はポケットから携帯を取りだした。秘密の宝物をそっと教える子供みたいな目だ。意味が解らない。差し出された携帯の、メールに添付された画像は、小さな男の子と一緒に微む見覚えのある女性。目を疑った。
「先生だよね、これ。この男の子って?あの時の?」
お腹にいた赤ちゃんなの?受け取って奈央は瞳に聞く。驚きで声が上ずった。瞳はコクリと肯いて見せ
「他にもいっぱいあるんだよ」
画像付きのメールが沢山並ぶ。幾つもの画像から男の子の成長ぶりが見てとれた。頬を紅潮させ、ちょっと照れたような瞳の横顔をしばらく眺めながら 奈央もやっと事情が解りかけてきた。
「瞳、先生とやりとりしてたんだ、メール…」
──いつでもメールしておいでアドレスを教えてくれた朝子先生。
ずっと心に引っ掛かりながら、何となく忘れたふりをして過ごしてきた。奈央はとっくに携帯を変え先生のアドレスも消えてしまったのに、先生はずっと瞳の「先生」だったんだね。
「先生、私が突き飛ばすより先にわざとしゃがんだんだ。その後 尻もち付いた。」
えっ?と問うように奈央は瞳の顔を見る。奈央の思い出す光景はいつも同じだった。
「何度も何度もあの時のこと思い出して、あの時の様子が目に浮かぶ。私が本当に突き飛ばしていたらきっとそれじゃ済まなかったと思うんだ」
「瞳は先生に触れてなかったってこと?」
あの後の無責任な噂話、実しやかに囁かれていた先生の退職の理由も全部信じていたわけじゃない。自分が見た事だって全部じゃない。解っていたけれど かといって 噂話を否定したり瞳を庇ったりすることも 奈央にはできなかった。
「うん。校長室でこってり絞られた時も 先生が言ってくれた。何を言っても信じないヤツも多かったとは思うけど」
──先生は赤ちゃん守りたかっただけじゃなく、私も守ったんだ。瞳はゆっくりかみしめるように言った。
「謝らなきゃ、と思った。奈央の言う通り、言っちゃいけない言葉だ。許されない言葉だ。」
「さんざん迷って 電話しかけては切って、書いては消して…なんとかメールしたんだけどね」
「そっか…そうだったんだ」
もしも。もしも「この命」が生まれてこなかったら…そうやって悩むのは決して私だけじゃない。お母さんの涙、私の不安、生まれなかった私の「姉」か「兄」…奈央は思う。先生はあれからどんな風に あの時期を思い出していたのだろう。瞳とメールを交わせたことでやっと、悲しい思い出では無くなったんだろうか。
「そうだ、奈央。今から 一緒にメール送る?」
いいこと思いついた、そんな風に目を輝かせ、瞳が奈央に切り出した。
「私も?」
瞳が今度は大きく手を振りながら美佐を呼ぶ。
「美佐ちゃーん、おいで、写真撮ろうよ」
少し離れて遊んでいた美佐が肯いて駆け戻って来る。手渡された携帯に奈央は文字を打つ。何から書こう、何を伝えよう。迷いながら。
──先生 奈央です。今日瞳と遊園地で偶然に会いました。本当に久しぶり。
私、先生のことよく思い出していました。今さらですが『赤ちゃんのお誕生おめでとう』。言いたい言葉、伝えたい気持ちが文字を打つ間に溢れだす。優しい生徒じゃなくてごめんね。力にならなくて ごめんなさい。でも…。
どんな風に書いても全部は伝えきれない気がした。瞳が傍で文字を打ち込む奈央の手元を見ているのを感じながら 奈央は最後に書き込んだ。
──もう、『自分は役に立たない』なんて、そんなこと、絶対に言わないでくださいね
先生はいっぱい私達に残して 伝えてくれていたんだよ。
「なんてかいてるの?」
ねぇ、ねぇ…美佐が覗きこむ。ないしょ、ないしょ、誤魔化す奈央に美佐がむくれる。
「ないしょ、ないしょ。」
瞳が美佐を抱き上げてくるくる回す。
「お空が回るぅ」美佐がきゃっきゃと声をあげた。
「あー、こんどはハートのかたちのふうせんっ!」
今度はくまの着ぐるみが風船を配っている。抱っこされて高くなった目線で それを見つけた美佐が目を輝かす。
「自分で行ってもらっておいで。ちゃんと『ちょうだい』って言うんだよ」
一緒に来て、と手を引く美佐の背中を押すと 少し情けなそうな顔でふたりを見上げた後、美佐は駆けだした。中学生くらいの女の子たちが 笑い転げながらふざけ合っている。
今日の自分の言葉が いつか誰かをどんなに傷つけるかなんて きっと考えてもいない。どの子も私でどの子も瞳だ。残酷で 未熟で 不安定で 傷つきやすくて どうしようもない少女たち。愛おしくて懐かしくて 切ない時間がよみがえり 奈央は全てを抱きしめてみたくなる。中学生たちの群が通り抜けたその先に 新しい風船を手にした美佐が目に入った。
「も・ら・え・た・よー。み・ず・い・ろー」
幼い自信と誇りでいっぱいの笑顔をこちらに向けて、少女はそこに立っている。
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