「すみません・・えっと・・カクテル、一番綺麗な色の・・」
若い女の子はおずおずと周りを見回し、カウンター席にぎこちない動作で腰掛け緊張ぎみの声で言う。 こういう所はいかにも不慣れな様子。 「少女」と言っても差し支えなさそうな、その化粧気のない顔を見つめ、マスターは少しだけ首を傾けた。
「大丈夫、未成年じゃありません」
その娘は姿勢を正し、ぎこちなさは残るものの、可愛らしい笑顔を見せるとそう言った。 長いまつげが影を落とした生真面目そうな横顔は 何かを一生懸命考えているようだった。 出されたカクテルを眺めたまま、手もつけていない。 ふと見上げる。視線が合う。
「どなたかと待ち合わせですか?」
「いえ・・」
少し困ったように微笑んで、彼女は目線をまたグラスに落とす。 炭酸が抜け、生ぬるくなったカクテルの味を思う。 若いときならムっとして、声を掛けたかもしれない。 けれど、ここは酒やつまみを提供するだけの場ではない・・ 限りなく複雑な、いや、もしかしたら当人達が思っているよりずっと単純な、人間模様・・ カウンターの中で見るとはなしに見ている内に、マスターはそんな風に思うようになった。
「このマッチって、この隣にあった店のですよね?」
女の子はポケットの中をまさぐって黒い紙マッチを出し カウンターに乗せ、聞く。 ちょっと、乗り出して眺める。懐かしい。閉店した隣の店で使っていたものだ。
「でも、不思議なんです」
水滴のついたグラスの中にその不思議があるように、覗き込みながら言う。 女の子は「夏紀」と名乗って、ゆっくりとした口調で話し出した。
*****
母の遺品の中にあっったんです。これ。 電話番号はもう使われてなかったけど、住所を見て地図で調べて、・・・ 私が生まれた年に閉店してるんですか、このお店。 今見たときも「貸し店舗」の張り紙があって、ドアは鍵掛かってて開かなかったけれど・・ でも、私、歩きながら 解ったんです。 どんな道があって、どんな階段を降り、どんなドアを開け・・店内の様子、流れるピアノの音色。
・・あの店ではピアノの生演奏があったんですよね。 そこでピアノを弾いていた人の姿も何だか思い浮かべられるんです。温かなその音色も。 不思議。 歩きながら、どんどん明確に意識された。一歩一歩踏み出すごとにその想いは強くなる。
私、ここ、知っている。覚えてる。 何でなんだろう。
母ですか? 穏やかな人でした。いつも微笑んでた・・。 過去の話は何も聞いていません。いずれ話すわねって言いながら、急に病状が悪化して。 義父に遠慮もあったのかもしれません。 何か事情があってひとりで私を産んだ母を、ずっと見守って支えてくれた人、とても優しい義父なんです。 私も義父のこと、大好きです。 でも、今日どうしてもこのマッチの店を訪ねたい・・そんな思いが止められなくて。
母は私にピアノを教えてくれました。 自由に弾きなさい。思うままに弾きなさい。あなたはきっと、それが一番いいの・・と。 母は、それは幸せそうに聴くんです。私の弾くつたない音でも。 死ぬ間際も、そんな表情を見せました。 きっと、その時ピアノの音を聞いていたのではないかしら・・・そう、思いました。 母にとって、ピアノは何だったのか、それがとても気になって。
マスター。 マスターと、この店のことも私、初めてって気がしないんです。
****
マスターは少し老眼ぎみの様子でマッチを眺めた。表情が和らぎ、細い目がさらに細くなる。 迷子の子犬が帰ってきたような気分だ。待っていて良かった。そんな気がした。 隣が空き店舗になって長い。「貸し店舗」の張り紙も もう古びて黄ばんできている。 ピアノ好きの「ママ」が店を閉めてから、数回借主は変わったけれど 空きになってからが一番長い。
二十年くらい前になるだろうか、隣はここよりも少しばかり広い店舗なだけなのに、グランドピアノを中央に置き、生演奏を聞かせていた。 無口で寂しい目の痩身の青年が ピアノを弾いていた。 とっつきにくそうな見た目からは想像できないくらい優しい音色を聞かせた。 口こみの評判を聞いて、彼の弾くピアノを聴きにたくさんの人が集ったものだ。
「そのピアニストのマサトが、ずっとここの奥の部屋で寝起きしてましてね」
マスターは店の奥、物置でもあるような小さなドアを指差して言った。
「その彼を訪ねて、ちょうど今のあなたみたいに、私の所へやって来た女の子がいました」
「私みたいに?」
「ええ、私たちは『ナツキちゃん』と呼んでいました」
****
私のところにやって来た時、ナツキちゃんは小さなバッグひとつしか持っていませんでした。
「先生の傍にいたいんです」
「先生?」
マサトにピアノを習っっていたのだ、とナツキちゃんは私に言いました。何だかとても誇らしげにね。
「いきなりいなくなっちゃうんですもの。音大も辞めたって聞いたし、色んな人に聞いて毎日探しました。 会えなくって寂しくって私、死んじゃうかと思った」
家に帰らない、ここに置いてくれなきゃ、どこで何をするか解らない・・ 脅し文句に近い言葉をやんわりした口調で言うと、ナツキちゃんは邪気のない顔でにっこり笑います。 芙蓉のつぼみのようだな、ガラにもなくそんなことを思ったのを覚えています。 きっちりした家庭で大切に育てられた娘さんだろうな、そう感じました。 そんなひとを酒場の空気に馴染ませてしまうことを考えたら、さすが、私でも躊躇します。 ずいぶん若く見えたこともあって、家のことなど念のため聞くと、
「大丈夫。未成年じゃありませんから」
ちょうど貴女が座っているその席で、貴女と全く同じことを言ったんですよ。
「ここで働かせて下さい。お願いします。お給料無くたってかまいません」
ナツキちゃんは真剣な目で懇願を繰り返します。結局私が根負けしました。
*****
「ふたりは恋人だったんですか?」
レコードのピアノの音に合わせ、ゆっくりと指を動かしながら夏紀が聞く。
「いや、少なくとも最初は 師弟、どちらかと言えば兄妹みたいな関係だったんじゃないでしょうか」
マスターはそう言って、静かに目を閉じた。
****
ふたりの関係が少し変化した、そんな風に感じた時があります。 ずっと咲きかけのままだった小さな蕾が、ある日大きく開いたように・・ナツキちゃんの表情とか仕草といったものが柔らかな変化を見せていました。 そして丁度その頃、マサトのピアノも変わったと聞きます。
「もともと聴く者の気持ちが浄化されるような、他にはない音色を聴かす子だったけれど・・」
ロマンチストのママの言葉を借りれば、マサトの弾くピアノの音が『幸せだ』って言ってたそうですよ。 『あいしてる、あいしてる』とね。 けれど、そのままその幸せは続かなかったんです。 不協和音。 ただの意味をなさない音の塊。 マサトが、客の前でそんな音を急に鳴らし、そのまま、右手を押さえてカタカタと震えました。
「おい、おい、ナンだよ、間違えちゃったの?マサっちゃん」
酔いの回った馴染みの客が声掛けて笑います。 気持ちよさそうに体を揺すっていた女の客が 傾けた体をもてあまします。 冷たくも見える整った横顔、繊細な指先、マサト目当てで来る女性の客もたくさんいました。
「気分、乗らないんで」
一瞬の怯えのようなものを顔から消し、ムスっとした、生意気とも取れる硬い表情に変わると マサトはその場から立ち去ったといいます。これは隣の店のママから聞いた話ですが。 客の前で演奏を投げ出した日からマサトはピアノに触れず、隣の店にも出なくなりました。
「マサトがピアノを弾いてないと、客足ががくんと落ちるのよぉ」
うちのカウンターに座ってママがぼやきます。 グラスを拭きながら、掃除をしながら、ナツキちゃんは悲しそうに呟いたものです。
「私にできることが何か、わからないんです。マサくんが私を必要としてくれるなら、何でもするのに」
何か苦しんでるのは解る・・でも それが何なのか、解らないの。
「体調も悪そうなんです。病院行くように言ってるんですけれど」
ナツキちゃんの心配する様子に、ママはただ首を横に振り、黙って大きくため息をつきました。
「どこが、そんなに好きなの?」
わざと、問いかけてみました。ナツキちゃんの笑顔が見たかったからかもしれません。 思ったとおりナツキちゃんは目を輝かせ、真っ直ぐに顔を上げて、私に言いました。
「マスターも解ってるくせに。あんな音を聞かせてくれる人は他にいないもの。 マサくんのピアノは聴く人の心を綺麗にするの。幸せにするの。魔法みたいに。 世界にだって通用するって、私信じてる。そんなマサくんと知り合えたことが私の誇りなんだもの」
ガタン・・気づくとマサトが店のドアの所に立っていたのです。蒼白な顔をして。
****
「ふたりはどうなったんですか?」
夏紀は相変わらず、グラスに手をつけずに、じっと見つめるだけだ。 飲めないのかもしれないな・・マスターは思う。 そして、バーで働きながら、全く飲まなかったナツキのことを思う。 レコードの音が途切れているのに今やっと気づき、マスターはゆっくりプレーヤーに近づいた。
「マサトの方が出て行きました」
「何の説明もなく?」
「お世話になりました、と私とママに挨拶の手紙だけは残していきました。 決して いい加減なヤツじゃあ、ありませんでした」
「演奏途中で投げ出して、仕事勝手に休んで。それっていい加減って言わないんですか? ピアノ、飽きちゃったとか?腕に自信がなくなったとか? ナツキさんにも理由も言わないで? もしかして他に好きな人が出来たとか?」
おっとりした雰囲気の夏紀が、急に顔を上げ納得いかないという風に語気を強め、畳み掛ける。
「どんな考えがあったのか、何があったのか・・本人しか解らないことなんですよね・・」
マスターはレコードをかけ替えながら答える。若さから来る真っ直ぐさが眩しく、羨ましい。 夏紀自身も、何故こんなに「ナツキさん」に感情移入するのか解らない。 同じ名前の、同じ位の歳の女の子。このままでは寂しすぎる、と思う。
「訳がわからないまま置いていかれて、それじゃナツキさん、可愛そう」
「ピアノの腕に関しちゃ、間違いはなかったわよ、私、ピアノ聴く耳には自信があるもの」
いつからそこにいたのか。栗色の巻き髪、光沢のある黒のワンピースに黒のレースのショール。
「ママ」 マスターが驚きと懐かしさの混じった声を上げる。
「奇遇としか言いようがないわね。マサトの話をしに久しぶりに来てみたら・・」
「ママ」と呼ばれた60代くらいの’女性’は、 「久しぶり」、片手を優雅に上げ、太さを押さえた独特の声色でマスターに挨拶した。 そして夏紀を見て一瞬、驚いた表情になった後、目じりに優しい皺を沢山刻んで微笑んだ。
「おや、このお嬢さんって・・?」
「夏紀さん。このマッチを亡くなったお母さんが大事に持ってらしたそうだ」
あら、懐かしい・・「ママ」はマスターから受け取ったマッチをその大きな手の平に載せ、目を細める。
「幸せな、私にとっても一番幸せな時期だったのよ・・夏紀さん」
「マサトのピアノは聴く人の心を綺麗にするの」
ママは、濃いマスカラに縁どられた目を潤ませて言う。
─これは「伝説」なんだけどね・・ ママは前置きして、マサトのピアノがどれ程人の心を打ったのかを語りはじめた。
「私に嫌がらせしにやって来た荒っぽい連中がね、一曲聴いただけで、何もせず大人しく帰ったとか・・」
ママが言うと、マスターも後を継いで
「悪さをして逃げ隠れしてた男が、曲を聴いた後、その足で自首しに行ったとかいうのもありましたね」
「クスリやめる決心がついたヤク中の男の話とか」
「足洗うことを決めたチンピラの話とかね」
「やり直そうって、決めたカップルの話もあったわね」
マスターとママは代わる代わるに「伝説」を挙げ、そして懐かしそうに笑う。 二人にとって、マサトのピアノが店に流れたその時期が、どんなにかけがえのない愛しいものなのかが伝わってきて、夏紀の心を柔らかく満たす。夏紀までも自然と、幸せな時を懐かしむ者の目になっていた。
─あら嫌だ、歳とったら、涙もろくなっちゃって
ひとしきり笑った後ママはバックからハンカチを取り出して、目頭を押さえた。
「マサトがいなくなってから すっかりお店やるのがつまらなくなっちゃってねぇ・・ 店を閉めて・・もう20年かしらね、マスター」
「お話は聞きました。怒ってらっしゃらないんですか?勝手にお店辞めて出て行ったマサトさんのこと」
「そうねぇ・・」
するりと隣に腰掛け足を組むと、ゆっくりした動作で細い煙草に火をつけてから、ママは夏紀の問いに答える。
「マサトのことはマサトが自分で決めたことだからね・・残されたナツキちゃんは可愛そうだったけど」
「最初から、私が無理やり頼んだのよ。ふらっとお客で来たマサトがピアノに触ったとき 解ったの。どこにもない、素晴らしい才能だって。この子の身体の中には音楽の神様がいるの。無口で無愛想だけどどんなに綺麗な心を持ってるか、ピアノはちゃあんと教えてくれたのよ。アタシは出て行こうとするマサトの腕、つかんで離さなかったわ。 お願いだから、ここににいてって、どうかピアノを諦めないで・・・って」
ママは一気にそう言うと、苦しそうに長く息を吐き、赤いマニュキアを綺麗に塗った指で額を押さえた。
「結果、余計に苦しめてしまったのかもしれないと思って、それが気がかりでね」
コトン。 マスターはママの前に 無言で水割りを差し出した。
「マスター、今日ね、やっと見つけたの、マサト。20年ぶりにね」
「探してらしたんですか?マサトさんのことずっと」
ママは夏紀の問いにうなずきながら、マスターを見上げて聞く。
「ずっと・・」
ママは夏紀の言葉を強くゆっくり繰り返し、続けて聞いた。
「ねぇ、どこにいたと思う?」
水割りのグラスを傾け、ぐっと飲み干した後、ママは言った。
「病院なの」
いずれはピアノどころか自由に身体を動かすこともできなくなるのだ・・ 少しずつ進行する病気なのだ・・と、 ママの店で飲んでいた一見の客の青年は、そう言いながら泣いたのだ。 才能ある弾き手を捜していたママは、青年の弾いたワンフレーズに魅了され、頼み込む。 やけにならないで。あなたがピアノを辞めたら、ピアノが悲しむわ。 お願いして、お願いして 引き止めて、どこにも行かないでって、 マスターにも頼み込んで隣の店の奥の部屋に住まわせて・・ そしてそこへ女の子がやって来た。大きな花束みたいな恋心を持ってね。 その時からが、一番お店が賑わった時期。私が一番幸せだった時期。 そう、マサトのピアノが最高に幸せな音を奏でた時期。ピアノが幸福だった時期。 その女の子が「ナツキちゃん」・・本名は「麻子」ちゃんだったわよね、マスター。 母の名。
「では、マサトさんが私の・・?」
頬を紅潮させ、夏紀がママの顔を見る。
「そうね、きっとそうだわ。あなたの顔見たとき、似てるって思った。目のあたり、顎のライン」 「マサトさん・・マサトさんが私の父だとしたら・・そうだとしたら・・私のこと、知ってたんでしょうか?」
ママは灰皿にトンと、灰を落とすと、ゆっくりと顔を上げた。
「知らなかったと思うわ。何度も言うけど、いい加減とか無責任とか、そういう子じゃなかったのよ」
沈黙が続く。夏紀は混乱した頭で、さっきの話の主人公たちを自分の「父」と「母」に置き換えて考えようとしていた。 レコードだけが、静かな店内にプツプツ・・と曲が終わったことを告げている。 マスターがやっと気が付いて、針を上げる。
「私、ここの店もマスターも、閉めたママのお店の様子も、父のピアノの音も・・何だか知ってる気がしたんです」
「あの後、ナツキちゃんがを心配した幼なじみの青年が迎えに来てね、連れて帰ったの。意気消沈して幽霊みたいになってたのよ、ナツキちゃん落ち込んで。その時はお腹もまだ、目立ってなかったわ」
─母は父に妊娠を告げなかった。父は何も知らないまま姿を消した。
「もしかしたらナツキちゃん本人さえ、お腹の中の貴女の存在にまだ気づいていなかったのかもしれない」
ママは足を組みなおし、短くなったタバコをもみ消して言った。
「ナツキちゃんをお家に戻そうとして、ナツキちゃんの居場所をご両親に連絡したの、マサトだったんじゃないか、って私は思う」
母は私をお腹に宿して、家に戻ったのだ。 幼なじみで母のことをずっと好きだったという義父は、どのようにして母を迎えたのだろう。 母はどういう思いで私を産み、ずっと支え続けてくれた幼なじみの青年のまごころを受け容れるようになったのか。
「マスター、マスターはその後、ナツキちゃんには一度も会ってないっていうのね?」
マスターは肯く。
「もしかしたら・・こうは考えられないかしら?小さな貴女を連れて何度か訪ねて来てた。マサトを探しにね。 でも、マサトの行方は解らず、ナツキちゃんはマスターにも会わず黙ったまま、帰った・・」
そうなのかもしれない。 幼い自分を抱いて、あるいは手を引いて、母は何度かここを訪れていたのかもしれない。 記憶にもはっきり残らない そんな幼い頃。
「それとも・・」
マスターがやっと静かに口を挟んだ。
「お腹の中に芽吹いた小さな命の貴女でも、お母さんを通して何かを記憶してたのかもしれません」 マスターは言ってから、照れたような表情になって慌てて付け足した。
「あ、気にしないで下さい。何だかふっとそんなことを思っただけですから」
ママがマスターを見上げて微笑む。
「ロマンチストはどっちだか」
お母さんを通して・・不思議とマスターのその説明がすとんと嵌り、夏紀の心の中で木霊した。 心の中、ぽかりと空いていたところが ゆっくり優しく埋められて行く。 母はずっと思い続けていたのだ。ずっと考え続けていたのだ。ずっと諦めなかったのだ。 義父との穏やかな生活を大切にしながら、義父の見返りを求めない愛情に、違いのない真心で応えながら それでも、心の奥にピアノの音は静かに静かに流れ続けていたのだ。
「お父さんに会いたい?」
ママが聞く。一瞬戸惑いを見せた夏紀の目をじっと覗き込んで、ママは続けて言った。
「ほとんど不自由になった身体で、病院のロビーのピアノ、一生懸命弾いてたわ。いい音だったわよ。奇跡のようだった」
夏紀は 輝く海の色のカクテルにやっと手を伸ばし、口をつけた。
「どうか連れて行ってください。私、父の弾くピアノが聴きたい」
病院のロビーで父とふたり、演奏がしたい。 今日 ここに来られたのは、きっと母がそう望んだからだ。 夏紀の頬がふっと緩み、マスターに声を掛けた。
「マスター、マスターは最初『待ち合わせですか』って聞かれましたよね? 私・・何だか今日『待ち合わせ』だったんだって、そんな気がします」
私、マスター、ママ、若い日の母、そして父。大事に今日まで育ててくれた大好きな義父。
「わたしたちの『待ち合わせ』に乾杯」
カチリ。 細く長い煙の立ち上る煙草を灰皿に置いて、ママはグラスを持ち上げ夏紀のグラスに合わせる。 マスターは、拭きかけのグラスを軽く持ち上げて応えた。
0コメント