花の頃になると、電車や車に乗って、遠くの町からも たくさん人がやって来て、 思い思いに 写真を撮ったり お弁当を広げたりします。
隣に植えられた若い桜は、そんな人々の 桜を見上げる時の 表情を見ると、 桜であることを、誇らしく思うのでした。
若い桜が その、か細い枝にやっと、かたい芽を少し つけた時、一人の老人が うつむいたまま 通り過ぎました。
「桜じいさん、私には よく 解らない。もうすぐ つぼみが ふくらむのに、なぜあの老人は、顔を上げずに 通りすぎるの?」
じいさん桜は 話しかけても ほとんど、黙っています。
もう返事してくれないか、と若い桜が思ったとき低い静かな声で じいさん桜は言いました。
━あの老人は ずっと若い頃、大好きだった女の人と ここへ来て 指の先に初めて そっと触れたんだ。 戦争が 始まって、終わって、ここでまた やっと会えて、 それから一緒に歳をとって ・・けれども 彼の方が ひとり 長く生きてくことになってしまった。
桜の花びらの色は、きっと あのときの、きれいな 指先を思い出すんだろうね・・。
若い桜の問いかけに 答えたというよりは、まるで独り言のような、じいさん桜の言葉でありました。
若い桜は、毎日やってくる老人を もう少し黙って見守ろうと思いました。
若い桜の芽が 膨らんで、小さなつぼみに なりました。
女の人がひとり、ため息をついて 通り過ぎました。
「桜じいさん、私には まだ、解らない。もうすぐちらほら花が咲くのにため息をつく人がいる。」
長い沈黙の後、じいさん桜は また独り つぶやくように言いました。
━ あのご婦人は ずっと前の冬に 赤ちゃんを産んだ。 病気で生まれた赤ちゃんのため、
この道を毎日病院まで歩いたものだ。
花の咲くころにはきっと、赤ちゃんと一緒に公園に行こう。 満開の桜の下、元気になった赤ちゃんの 笑顔を 思い浮かべながらね。 それは、叶わなかったんだけれども・・。
若い桜は一瞬、女の人の思い浮かべたその光景を 目にしたような気がしました。
そして、見てもらえるかどうか 解らないけど、たくさん たくさん 花をつけよう・・と思いました。
若い桜の枝に ちらほら花が咲きました。
若い女の子が、悲しい顔で通りすぎました。
若い桜が聞く前に じいさん桜は 低い声で歌うように言いました。
━ あの子は 満開の桜の下、最初の恋にさよならした。 付き合うこと自体にウキウキしてるのが、 はたから見ても解ったさ。 だけど気がつけばいつの間にか相手の心は 離れてた。
花見で賑わう人の中、ぽつんと置き去りにされて、あの子はどこへも行けないで立っていた。
若い桜は、女の子がいつか、本当に心通う人とここへ来ることを、心から願いました。
桜の花が満開の頃、たくさんの人が通り過ぎました。
じいさん桜は、もう何も話さず、はしゃいで遊ぶ子供たちにも、賑やかな宴を開く人たちにも ・・
そしてうつむいて歩く人、大切な思い出に涙する人にも同じようにその見事な花を咲かせて見せました。
やがて、若い桜の花は散りました。
じいさん桜の花の終わりはそれは美しい花吹雪でした。
そして間もなく桜の木々は 花の後に青々とした葉をつけ、夏に柔らかな木陰をつくるのでした。
0コメント