僕はゆらゆらと水の底に沈んで行くんだ。右の手を誰かに引かれるようにゆっくりと。とてつもなく真っ暗で 音のない世界。ずんずんと 深く深く 沈んで 沈んで 沈んで。
苦しくなったり気を失ったりした方が いっそいいかもしれない。なのに 僕はただ暗闇にずんずんと沈むんだ。
汗をかいているのに 手足は冷え切っていた。うなされていたのだろうか、2段ベッドの上から草太が顔を覗かし、小声で聞いた。
「カナウ、大丈夫か?」
*
「カナウちゃんの右の手を握っておねがいごとすると ぜったいに 叶うって」
そうちゃんが言ったもん、五歳の菜摘が無邪気に笑ってそう言った。
「だから?」
「だ・か・ら」
枝のように細く白く、不思議な向きに折れ曲がったその右手を、ナツミは大事な宝物に触れるように、小さな手でそっと握る。そして、目をぎゅっとつぶると 口の中で何やらもごもごと願いごとを呟いた。今まで話題にすることも避けがちで その手に実際に触れることなど 誰もしなかった。皐月も一瞬慌てて止めかけたが、叶は振り払うこともなくそのまま触れさせている。涼しげな横顔からは何の感情も読みとれなかった。
「どういうこと?」
ランドセルを放り出しすぐ出て行こうとする草太の首根っこを捕まえて皐月は、誰もいない台所の隅へ引っ張って行った。
「何だよ、引っ張んなよ、服破れるし。母さんに怒られるじゃん。大体暴力反対っていつもサツキ姉ちゃんが自分で…」
口が達者になったとはいえまだまだ五年生だ。にらみを効かせて顔を見据えるとだんだん声が小さくなる。引きずりながらも、コイツも結構大きくなったなぁとその身体の重さにちょっとノスタルジックになるが 今はそういう話をしたいんじゃない。
「だから 何?オレ遊ぶ約束してんだから」
何度も脇をすりぬけようとして 草太は皐月にブロックされる。まだまだだな、皐月が不敵に笑ってみせると 草太は涙目を誤魔化すため上を向いたまま、腕をぶらぶら振って足をジタバタさせた。
「叶の手を握って願い事すると何だって?何よ、それ。何でそんな話小さい子にした?」
草太は何を責められているのかやっと解ったような顔をしたが、意外に悪びれた様子はなく
「姉ちゃんと叶がしゃべってたの聞いただけだし」
内緒の話なんてこの「家」には存在しない。どの子も皆、癒えない傷があり、まだまだ始まったばかりの人生に、もう沢山の重いものを背負っている。本人から言わないことは無理に聞かないが、打ち明け話はほとんど「共有」だ。小さい子には口止めなんて通用しない。誰かにしか教えない秘密なんていうのはもめごとの火種になりかねない。こっそりと電話したりひっそりと泣いたりできない。人数のわりに狭い、この「家」での ルールであり常識であり そして、仕方ないと諦めなければいけないことでもあった。
*
「わぁ、やっぱりカレーだったぁ」
夕食の食卓ではしゃいだ声を上げたのは小二のリサだ。
「お願いしてよかった、ねぇ、叶ちゃん」
リサが得意げに叶に声を掛ける。叶はいつも通り無口なままだ。けれど「話しかけられる」ということが今まで程鬱陶しそうに見えないことに皐月は気づく。「人との関わりを嫌っている」というのだって皆の勝手な思い込みで 今までと何も叶自身は変わっていないのかもしれない。
小三のタケルも対抗するように声を上げる。
「席替えでヨシヤ君の近くになりませんようにってお願いしたら ボクも叶ったもんね。ねぇ叶ちゃん。」
ヨシヤ君はタケルのクラスのいじめっ子だ。タケルが「『家』の子」だということを言いふらし何度もクラスを巻きこんでの喧嘩になっている。
「全ては ノープロブレム」
おっとりした低い声でお父さんが言う。
「はいはい、いただきますするわよ」
お母さんの声で騒ぎは中断し、大所帯のいつもの夕食は始まった。
*
「僕のおかげでもないだろうし、偶然でもないでしょ、カレー。」
皿洗いの当番で叶と二人になった。栄養士の資格もあるお母さんが作る献立表はホワイトボードに書き入れてあり、今日は別のメニューが記入されていた。買い出しの当番にも当たっていた皐月が安売りを理由に材料を買ってきて お母さんにメニューの日程の入れ替えを了承させたのだった。
「最近リサ、元気なかったからさ、これくらいの願いなら叶えてやりたかったし」
そして 叶の力を少しの間でも皆の希望にしてみたかったから。
「タケルのは偶然だよ。ってか まあ確率の問題だけどね」
まさか皐月だって小学校の席替えにまで口出しに行かない。まあこの前の喧嘩で、呼び出されたお母さんとヨシヤ君のお母さんのそれぞれの剣幕の後では 先生が席替えに小細工した可能性も考えられなくは、ない。
小さい子たちの願いは 明日の天気とか食べたいおやつとか可愛い小物が欲しいとか、いつもささやかなものだった。
噂を流した草太本人は、さすがに全く信じていない様子だったが、時々小さい子たちにわざと願う様を見せ、その後叶った、叶った、と騒いで見せた。
小さい子たちの喜ぶ様子が楽しくて 皐月や叶はできるだけのことを裏でやり、草太は草太で叶うことが解っているような願い事をわざとして見せる。
*
叶の右手は生まれつきのものだ。
「僕が生まれる時 母も僕も危ない、と言われたらしい。父は…だからその時 願ったんだ」
夕焼けに染まったベランダで 洗濯物を取り入れる皐月のそばで 叶がぽつりと言った。
「万一子供がダメでも 子供はまたつくれる。妻は死なせないで欲しい。妻だけは助けて…って」
「そして母親はこう願ったそうだよ。産まれる子供について贅沢言いません。病気がちでも構わない 手足が多少悪くたっていい、赤ちゃんを助けて…」
左の手で洗濯物を取り入れるのを手伝いながら 叶は表情を変えずたんたんと語る。今までほとんど自分のことを語らずにいた叶がその日、 自分に家族のことを語り始めたことに 皐月は少し驚いた。
この子は傷を傷と感じないようにして生きるしか自分を支えられなかったのかもしれない。傷がどんどん叶の内部で広がって、やがて傷が叶を呑みこんでしまう。そんな禍々しい映像が頭に浮かび、皐月はブルっと身震いした。
誰かにこうやって吐きだした方が 傷が叶を取りこむのを遅らせることができる。皐月はそんな思いに駆られ 叶が先を続けるのを待った。
「で、ふたりの願いは叶った」
叶は左手で ぶらりと垂れた右の手をさすりながら言った。
「叶う…って でも、それは…だって 誰がそんな…」
祖母が、体調を崩し入院する、と叶がここにやって来たのは、一昨年の秋のことだ。母は亡くなり身内は祖母たったひとり、父は生きているかどうかも解らないという。色の白い整った顔の華奢な少年で、中一という実際の年齢より幼く見えた。
叶は みんなの質問にほとんど答えず、すぐに独りになりたがる。新しい仲間が増えることを喜んだ小さな子たちも 叶の他人を寄せ付けない雰囲気に、少しずつ話しかけるのをやめ、遠巻きに見るだけになった。そしてその祖母も、昨年亡くなった。
「祖母は 父を探しもしなかった。ずっと憎んでいたからね。せっかく助かった娘とやっと産まれた子供を結局置いて逃げたって。」
「何か疲れちゃった。もう明日にでも死んじゃいたいなぁ」
叶のお母さんは 疲れた顔で幼い叶の右手を握りながらそう言った。叶のお父さんが「逃げ出して」から、実家に身を寄せての子育ての間に 心を病んでしまったという。
「で、その通りになった。その願いも叶ったってわけ」
事故だった。母の乗った自転車がトラックの後輪に巻き込まれての事故。
母の意思とかは 関係ないことなんだろうけれど、それはきっと。
叶が夕暮れの空を見上げながら言った。
部屋の中で宿題をしている草太がそれを聞いていたことは 後で知った。
*
「怨む相手がいる。憎むべき親がいる。それでも幸せな方だと あたしはずっと思ってた」
物干し台の一件から ずっと叶のことを考えていた。
「あんたのこと全然解ってなかったんだなと思って。でも 考えてみたらあたしは結局誰のことも解ってないし 解ろうとなんしないで きたのかもしれない」
皐月は赤ちゃんの時に捨てられた。どんな親なのかなぜ捨てられたのかも解らない。添えられた手紙には「皐月」という名前が書いてあっただけだそうだ。
「あたしはここしか知らない。いつの間にかみんなの世話役になって、寂しがったり帰りたがったりする子を慰めたりなだめたりしながら それでもどっか そんな子たちをあたしよりましじゃん、と思ってた」
虐待を受けて、親から離された子、育児放棄 経済的な事情、皆それぞれが色んな事情を抱えていた。
「小さい子なんて全然好きじゃなかった。龍兄ちゃんみたいに ここを出ていくことばっかり 想像してた。」
「『こんなところ大っきらいだ、早く出て行きたい』っていつも言ってた『龍兄ちゃん』?」
「そう 何度もここを家出しては保護されて お母さんやお父さんが連れて帰ってきた。」
かっこいいなぁとあこがれた。皐月がまだ小学生だった頃、ここを卒業した龍兄ちゃん。
「送る会」でも他の卒業生みたいな ちゃんとした挨拶もせず怒ったような顔をしていた。
「龍兄ちゃんに その時 聞いたんだ」
「何て?」
「出ていけるの 嬉しい?龍兄ちゃんは皐月たちのところ もう戻ってこないの?って」
「何て答えたの?龍…さん」
「それは 皐月次第だな、って それだけ。意味わかんなかった」
叶が来たときは龍もとっくに卒業していたが 何度か訪ねて来ているので知っている。美容師として近くの町で働いている 卒業生。お土産を抱えてやって来ては 遊びに来たついでにと、お母さんを始め みんなの髪をカットしてくれる。
「ここにいた時なんか 今から想像できないくらい無愛想で あんまり喋らないひとだった。だけどそれでも、気がつけばみんながいつも傍にいた。家出している間は本当に心配だったし 帰って来た時は心底ほっとして 嬉しかった」
「じゃあ 皐月ちゃんと同じだ。みんな皐月ちゃんに懐いてる。きっと自分で思ってるより『面倒見の良い いいお姉ちゃん』だ」
「うーん。あれだ。あたしの場合はさ、名前のせい。ほら みんなの好きなアニメ、優しくてしっかり者のお姉ちゃん、『サツキちゃん』。 皆勝手にイメージ持ってさ。だから、」
「だから?」
「名前だけはつけてった親に感謝するかも。こんなこと今初めて思ったんだけどね」
叶は自分の名前をどう思っているんだろう…皐月はその問いかけを呑み込んでしまう。この間の話はずっと皐月の胸に引っかかったままだ。
「僕の名前を考えたのは祖母だそうだよ。男の子が欲しくて、でも女の子しかできなくて…だから娘のお腹の子が男だと解った時 たいそう喜んだって聞いた」
叶は一度息を継ぐ。時どき過呼吸になる叶だから 皐月も心配になって顔色を見る。
「あの人が愚痴っぽくなるのも 仕方なかったんだ。反対を押し切って結婚した娘の相手は結局ダメなヤツで 産まれた孫はこんなので」
「また、そんな言い方…」
「老後を楽しむこともなく孫の世話して、結局病気で自分も逝っちゃってさ」
自分の入院前に 孫とを連れてここに来た叶の祖母は 酷く気難しそうに見えた。肉親を置いて行く人の去りがたそうな、辛そうな姿を思い描いていた皐月にとって その光景は酷く簡単で、冷たいように見えた。
「好きだった?」
「血」の繋がりがあれば愛せる?一緒に暮らした思い出があれば愛せる?たとえどんな相手でも?
「…解らない」
皐月の気持ちを読み取ったのかどうか、長い沈黙の後 叶は静かにそれだけ言った。
*
叶と皐月が小細工できない願い事もある。偶然なんて そうそうあるわけもない。そんなことは最初っから解っていた。解っていたけれど、その時が来ると 皐月はうろたえた。
リサが食事に出てこない。お母さんに言われて 皐月が探しに行くと 「女の子部屋」の押し入れの中で 泣いていた。
「どうした?ご飯だよ。皆待ってる」
しゃくりあげながら 何かを言うがとぎれとぎれで聞き取れない。
「何?」
「叶ちゃんに…叶ちゃんの手に お願いしたのに」
やっとのことで聞けた言葉をつなぐと どうやら 一番の願いが叶わなかったことを言っているみたいだ。リサがいつ、何を願ったのか 皐月は知らない。
後を追って入って来た叶が、皐月の肩越しにリサの頭に左の手を伸ばす。わぁっと大声でリサは皐月の腕の中で泣き出してしまった。困った顔で皐月は叶に目をやる。
「ごめん」
リサの顔を覗き込むように 叶は膝をつき、頭に載せた左の手で優しく撫でた。
「ごめん、リサちゃん。僕が悪いんだ…」
叶がリサに語りかける。もう願い事が何でも叶うなんて信じさせておけないんだ、やっぱり。
ちゃんと話せば 小さなリサでも こんなままでは叶が一番辛いのは解ってくれる。
けれど その後に続けた叶の言葉は 皐月には思いもよらなかった。
「僕がきっと 先に願ったせいなんだ。リサちゃんに それを言わないでいた」
リサが涙をためた目で 不思議そうに叶を見た。叶にこんな風に話しかけられるなんて リサも初めてかもしれない。
「皆のこと大好きだから、リサちゃんのことも 大好きだから…」
「叶?」
半分押し入れ中に身体を入れ、リサを抱きしめたまま 皐月も振り返って叶の顔を見る。
「一緒にいられますように、って願ってしまったんだよ。もう少しだけでもいい 皆と仲良くなれるまで、誰もどこへも行きませんようにって」
リサが涙をためた目を丸くして叶を見つめる。
「だから ごめん…って」
「ノープロブレム、ノープロブレムっ。さあさ リサ、ご飯だ、ご飯。母さんも待ってるぞ。父さん、食堂まで肩車してやる」
大きなお父さんが背中を丸めて 押し入れのリサを抱き上げ 連れ出した。
*
「マミーに迎えに来てほしい。」
リサの願いは 考えてみたら 一番の皆の願いで それぞれが最初に願って当たり前なことだったのかもしれない。リサの母は母国に還されて戻らないまま、もう一年以上経つ。
「マミー」でなくても それは「家族」と名のつくだれか、子供が欲しいと言って訪ねて来た優しそうな夫婦、一番に自分を愛して一番に自分を必要としてくれる誰か、そんな誰かが迎えに来る時を どんなにか皆待っているのだ。ここがどんなに居心地のいい場所だとしても。お父さんとお母さんがどんなに大好きだとしても。
「解ったんだよ、あの時」
食後のリビングで 草太とタケルがじゃれあっている。ピンク色のチェックのカーテンをぐるぐる身体に巻きつけて菜摘とリサが お父さん相手にお姫さまごっこをしている。お母さんはツグミをおんぶしてあやしている。最近『家の子』になった まだ本当に小さな赤ちゃんだ。
そんな光景を眩しそうに見ながら 叶が言う。
草太があからさまに叶う願いばかり言うのをはじめ、皆 叶右手に願い事をしながらも 解っていたのだ。叶う願いを言う。叶わなかったとしてもさりげなく忘れたふりをする。それは皆が身に付けた 傷つかないための防御であったかもしれない。
「あたしは ちょと 違う気がするよ」
皐月が叶の右手に手を伸ばして言った。
「叶に触れるのが嬉しい。叶がテレながら それでも嬉しそうなの、解るから。皆そうだったんだと思う」
細いその手にそっと触れる。確かに血が通っている温かみ。
「遠巻きに見たり 腫れものみたいな扱いじゃなく、この手に触れられる。そのうちに叶もだんだん変わった。自分でも気付いてた?」
「そうだね。きっと。『皆が大好き』なんて 言ってから自分でうろたえた」
あはは と叶は肩こりをほぐすみたいに首を回しながら 笑ってみせた。
こらぁ、お父さんの声がする。
皐月が振り向くと 無残にレールから外れ 破れたリビングのカーテンと ひっくり返って呆然としているリサが目に入った。菜摘が泣いて 騒ぎに吃驚したツグミが起きてお母さんが嘆く。
逃げてこっちに来たタケルが 叶の右手にしがみついて言った。
「ピンクのカーテンなんてダサイもん。次は青がいいっ。」
草太も合わせて言う。
「前みたいな青がいいっ。龍ちゃんと海ごっこして遊べたあの色がいいっ」
龍がいた頃を覚えているのは 皐月と、草太くらいだろう。それは草太の自慢でもある。
「お水こわいこわい言ったそうちゃんが 学校のプールこわくなくなった 『海ごっこ』?」
「そうちゃんが泳げるようになった『海ごっこ』?」
リサと菜摘が 草太を挟んでぐるぐる回る。
違わい、関係ないし!草太の声、続いて聞こえるみんなの笑い声。
*
── 叶のことで相談がある。
それは草太が言い出した。神妙な顔つきは 今回のことで叶を巻き込んだことを草太なりに気に病んでのことかもしれない。
「何を いったい?」
皐月が問うと 草太はリビングにいる周りの子たちが テレビや遊びに集中しているのを確認してから話し始めた。お父さんはソファで新聞を読んでいる。
「ずっと うなされてんだ、叶、叶君」
年上でも何でも日頃平気で呼び捨てする草太が ちょっと気を使って言葉を選ぶ。
「溺れる夢をみるんだって。いつもすごく辛くて悲しそうな声で言う」
草太の話がひっかかり 皐月は宿題も手に付かなかった。
叶の苦しみを私達はどうしたらいいのだろう。叶の痛みを私は引き受けることができるだろうか。
叶のことをずっと考えていた。
リビングで宿題を一緒に片付ける、という理由で 叶を引きとめた。小さい子は寝静まり
お母さんがTVを小さい音で聴きながらアイロンをかけている。
「がっかりしたんだよ、僕の父は」
まだ「逃げ出さず」にいた頃の叶の父は叶を連れて海に行ったのだという。
怖がる叶を足の立たないところまで連れて行き 右の腕をうまく使えないで溺れそうになった叶にその後 言い放ったのだ。
──オレは息子と一緒にキャッチボールするのが夢だったんだ。一緒に潜りに行くのが夢だったんだ。
「怒鳴られたり怒られたりした方がまだましだった。僕のことで父親は 自分こそ傷ついた顔をした。」
ずるいな、と皐月は呟く。自分が先に傷つくなんて大人はずるい。きっと自分を捨てた親も 勝手にどこかで傷ついている、そんな風に考えるとムカムカする。
「何でだ」
震える声で言う皐月を 叶の方が心配そうに見る。
「何で 叶にそんなこと言うんだ。何で叶がそんなヤツを気遣うんだ。何で・・・」
誰に対するともいえない怒りがこみ上げて 皐月は続く言葉が何も見つからなかった。
こんなことで泣いたことなんかなかったのに ぽたりと目から雫が落ちノートを濡らす。あれ、何だ?なんて言いながら手の甲で拭きとり へらっと笑おうとしたのに 流れ出した涙が止まらなくなった。
切なそうな目で皐月の横顔を見ていた叶は 静かに目をつぶり小さく息をついた。
「皐月ちゃんこそ 必要だ」
そういうと叶の右手がわずかに動き 俯いた皐月の髪に触れた。
「その悲しみが どうぞ 少しでも癒えますように」
みんなが寝静まったリビングに叶の声が厳かに響く。
リビングと台所の間にある電話が鳴り 風呂上がりの草太が出た。
「もしもし 龍…龍兄ちゃん?!」
*
日曜日 朝からにぎやかだなと思いながらリビングに入った皐月の目に 龍の姿が飛び込んできた。
この前の電話で草太が龍から 近いうちにまた来る約束を取り付けていたのは知っていた。
小さい子たちがまとわりつき 抱っこをせがんだり ヒーローごっこの相手をさせる。「龍兄ちゃん」はいつも大人気だ。
「龍兄ちゃん 日曜日に来てほしい って 叶の右手にお願いしてた」
満面の笑みを浮かべ 草太が声を上げる。
「おみやげ おみやげ」
リサが龍の周りをぐるぐる走り回る。菜摘とタケルもはしゃぎすぎてジュースはこぼすわ物は倒すわ大騒ぎだ。
「おう皐月、デカくなったな」
「そんなデカくないよ、その言い方何か失礼だよ」
皐月のむくれる顔を嬉しそうに見ながら龍は聞く。
「卒業したら栄養士の学校行くんだって?」
「うん」
ちらっと周りを見た。叶にも誰にもまだ 言っていない。
龍のように 高校を卒業したら自立を目指して皆ここを出る。皐月もそろそろお父さんとお母さんと相談してちゃんと先のことを決めていかなければいけなかった。
「叶は機嫌よくしてる?」
部屋の隅で本を読んでいる叶をちらと見、龍は皐月に問いかけた。一緒に暮らした時期はない者のことも誰に聞いているのか、龍はよく知っていた。
「母さん、これ頼むわ」
龍が布の入った大きな紙袋を お母さんに差し出した。
*
「カーテン完成したよっ。掛けるの手伝って」
まだ朝早い、暗い時間に皐月は起こされた。
「早く、早く みんなが起きて来る前に掛けちゃおう」
「何で あたしぃ?」
眠い目をこすりやっとのことで起きだして のろのろと皐月はリビングに行く。
「あ、この色…」
深い青からグラデーションの掛かったその生地は 以前掛かっていたカーテンとよく似ている。 龍がいたころよく まだ外が明るいうちにそのカーテンを閉め切って みんなで遊んだ。
「海ごっこ」。深い青い光に染まった部屋で、シーツを波にみたて みんなで魚のまねをして遊んだのは楽しい思い出だ。
窓の外、空が夜の色から少しずつ光を含み始めていた。部屋に少しずつ青い光が差し込んで来る。
電気を消したまま 掛け終わった大きな窓のカーテンを 床に寝転がって眺めていると 床がきしむ音がして 叶がドアのところに立っていた。
「青いカーテン?草太が願った色?」
「そうだよ、龍兄ちゃんが買ってきた」
叶がそっと部屋に足を踏み入れる。
「叶、叶も寝転がって。ここ」
皐月が自分の左を示して言う。
「何?」
「海ごっこだよ」
「海?」
朝の光が徐々に部屋を満たし 部屋全体が青く透き通った色に包まれる。外の木が風に揺れると ゆらゆらと光の波が揺れた。
「そう、沈まないし 真っ暗でもない。見上げるときらきら太陽が見える。きれいで静かで穏やかな そんな海の底。」
「うなされていたこと、知ってたんだ」
「ここでは皐月ねえちゃんに秘密ごとなんてできないんだよ」
ふふっと笑う。
「海の底から見上げたら きっとこんな風だ、あたしはずっとそう思ってた。」
──叶には暗くて怖いだけの世界だったの?
考えると悲しくて 胸が痛くなる。皐月は左手を そっと伸ばし叶の右の手を握る。強く握る。
ずっと目を見開いて青い天井を眺めていた叶が、大きく息を吸い 静かに目をつぶる。
皐月の見たその横顔に、安心したような 穏やかな微笑みが浮かんでいた。
「今まで自分のために願うことなんて何もなかった。でも僕も、 『家』に来て、やっと少しだけ願い事ができた」
「何?」
そうだな……
叶が天井を見上げたままでいるので 皐月は叶の横顔を遠慮なく見つめることができた。
「『家』のみんなのこと、ずっと好きでいられますように」
温かなものが皐月の心を満たして行く。皐月も叶と同じに天井を見上げて 一番さりげなく聞こえるように答える。
「それは 叶次第だな」
「『家』のみんなが僕のことを ずっと好きでいてくれますように」
叶の口からこぼれる言葉が なんだか泣きそうなくらい嬉しい。それでも皐月は高ぶる気持ちを押えて ただ言う。
「それも 叶次第だね」
くすりと皐月が笑う。目を開けて皐月の方を見て 叶も笑った。
──私は、ずっと、叶が好きだよ。
そう言いかけ、皐月は言うのをやめ、カーテン越しに空を見た。叶のこれからは 叶が自分で確かめて欲しい。私はちゃんと傍にいるよ。たとえ遠くに出て行ったとしても。
廊下を走る音がする。洗面所の場所を取りあう声がする。
なかなか起きられない子を起こすお父さんの柔らかい声が響く。つぐみをあやすお母さんの声も聞こえる。草太が一番に入ってくるだろう。二人で「海ごっこ」なんてずるいって怒るかな。
叶はもう一度目をつぶり 深く息を吸う。目をつぶっても明るい青い光が心を満たした。
「浮上するよ、叶」
皐月は叶の右の手を握り
ふたりで きらきら光るあの水面を目指し 海の底から浮かびあがる。
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