嘘つきな爪(ネイル)さかなの目8












 「修羅場」になんかならないといいんだけど……そう言ったのは律の母親の方だっただろうか。


 隣のおばさんと母親はいつものように立ち話をしている。どうせ内容は相変わらず最近駅向うの住宅街で起きた通り魔事件か空き巣の話だろうと思ったら、今日は少し違うみたいだ。試験前で早く帰って来ているのに全然気づかなかったのは母親自身のくせに、


「何?修羅場って」と律が聞くと、


「立ち聞きなんかしない。子供には関係ないの」と追い払う。


それでもいずれ話の中身は、誰からともなしに耳に入るのは解っている。ひと昔前のホームドラマなんかにありそうな古い住宅地。ちょっと暑苦しいご近所づきあい、余計なお世話ばかりやきたがる住人達のいるこの町の、愛すべきところでもあり、大嫌いなところでもある。そんな地域柄、空き巣や通り魔もこの近辺を狙うとは思えない。


 律は、玄関を入ってすぐの狭い階段を上がって自分の部屋に行く。窓から見えるのは 細い道を挟んだ、向かいの「希沙ねえちゃん」の家だ。




 希沙は律より五歳上で、一緒に登校したのは小学校の一年間だけだ。緊張すると吃音が出てしまう律にとって、希沙の存在はずっと大きかった。いじめっ子が何を言ってきても、希沙は手をしっかり繋いでいてくれて、何も怖がることはないと繰り返し教えてくれた。


 歳を経て 吃音はほとんど気にならない程になったけれど、希沙の後ばかり付いて回っていた泣き虫の律のことは、いまだに近所のおばさん達からの揶揄いの種になっている。



 希沙は小さい頃からピアノを習っていて、律は彼女の弾くピアノを聴くのが好きだった。小学校に入るよりもっと小さい頃から、希沙がピアノの練習を始めるといつも、律は希沙の部屋の床に寝そべって、絵本を読んだり一緒に歌ったりして長い時間を過ごしたものだ。子供向きの練習曲でもすぐに滑らかに弾けるわけじゃない。何度も曲の途中で指は止まるし、同じところばかりを繰り返しての練習もあった。


「ごめんね、こんなの聞いてても律は楽しくないね」


希沙は済まなさそうに笑うけれど、音階ばかりの指の練習曲でもいい、希沙の弾くピアノなら律は何でも聞いていたかった。音楽だけでなく、そこに居る彼女の「気配」を感じるのが律の楽しみだった。


  *


 就職してからの希沙はすっかり大人っぽく綺麗になって 、今までのように気軽には話しかけづらい。最近の希沙はいっそう華やかで、艶やかに光る唇や 明るい色に染めて緩く巻いた髪、綺麗に彩られた長い爪など、律はどこを見ていいのか戸惑って距離を置いてしまう。そんな律の態度を気にする様子もなく、希沙は会えば必ず近づいてきて何かしら声を掛けてくる。


「おっはよう、律」


学校に行こうと自転車を出している時、後ろから声がした。振り向くと明るい色の花柄のブラウスが目に飛び込む。まぶしい。希沙の視線を避けるように、律はぐいと自転車を押して前に出る。


「朝から機嫌悪っ。何か怒ってる?未だ反抗期なのかな、高校生男子」


「最近、気合入ってんじゃん。会社なんてそんなにお洒落して行くもの?」


一緒に居るのが照れくさく、わざと不貞腐れた様子で律は言う。


「爪にそんな飾りまでつけて、チャラチャラしすぎじゃない?そんなに伸ばしたら絶対ピアノなんて弾けない」


律が口を尖らせて言うと 跳ねるような足取りで追いついて横に並んだ希沙は楽し気に笑う。近づくと甘い香りが纏わりつくようだ。


「ピアノかぁ。懐かしいね。そうだね、これでちゃんと弾けるかな」


「爪なんか切ってさ、また弾いたらいいじゃん」


「うん……。そうね。でも今は……こっちの方が大事かな」


そう言いながら 希沙は両の手をかざすように上げて、ネイルを施した爪を見せて満足げに目を細めた。


「こっちが大事って?」


「先輩に、服装や化粧を細々注意されてへこんでた時、いいじゃん爪くらいって、要は仕事の内容でしょって、庇ってくれた人がいてね、それからずっと今日はどんなの、見せてって……そのひとが声かけてくれるのが楽しみになった」


「何だよ それ」


律が小さく呟くのが聞こえたのか聞こえなかったのか、希沙は意味ありげに微笑んで見せ


「律にもきっと解るよ。大好きな人ができたらね」


言い終わると ふと気が付いたように腕時計を見、


「わぁ。会社、遅刻しちゃう。行かなくちゃ」


慌てて律に手を振りながら、駅に向かって小走りに去って行った。


 


 


 希沙の父親は彼女が中学生の時に亡くなった。ピアニストを目指すと言っていた希沙は高校を出てすぐ就職し、ピアノを弾くのをぱたりと辞めた。母親が身体を壊して亡くなったのは その後すぐのことだ。


一人暮らしになってしまった希沙のために何かしてあげたい。希沙の支えになりたい。早く頼りにしてもらえるような「大人」になりたい。ずっと、前からそう思ってきた。もどかしい。いつまでも自分は「五歳下の子供」で、希沙にとって「弟」でしかないのが悔しかった。




 最近、希沙を送って来る男がいる。同じ会社の奴らしい。その男が希沙と一緒に家に入って行くのを律は何回か見かけている。


──長居すんな、とっとと帰れ。


明かりが灯る窓を睨んで 念じる。


──たまたま見かけただけだ。断じて見張っているわけじゃない


律は心で言い訳をする。


 男は近所の誰に対しても愛想がいい。気さくで感じの良い人だと近所のおばさん連中には好印象のようだ。塾帰りの律と顔を合わすと、まるで以前からの知り合いみたいに 笑顔で「よっ、お帰りっ」と声を掛けて来る。なんだ、コイツ、律はちょっと睨んで目を逸らす。それでも男は懲りずにまた、声を掛けて来るのだ。近隣の喫茶店でも居酒屋でも店の者や客と馴染みになるのが早いらしい。


──何だか 物騒だからね。男の人が送ってくれるなら安心よね


──いい人ができたんなら、早く結婚したらいいのにね、ご両親亡くして、希沙ちゃん独りで寂しいだろうし。


最初のうちは律の母親たちも勝手にそんな風に言っていた。けれどその後、希沙よりうんと年上の、あの男がどうやら独り者じゃないらしい、という噂が律の耳に入るのも早かった。


──いい人だけど、不倫はダメだよ、希沙ちゃん。亡くなったご両親も悲しむよ。


希沙のことを産まれた時から見ている近所のおばさん連中は あれこれ助言する。


「嫌だなぁ。全然そういうのじゃないですから」


希沙はいつも苦笑いしながら答えるのだ。




 その男の家の夕食に希沙が招待されたらしい、というのがあの「修羅場」云々の話の発端だ。招待してくれる「奥さん」の気持ちが測りがたく、希沙自身がうちの母親たちに漏らしたらしい。そんな話を耳にしてからというもの、試験勉強をしなくてはと教科書を開いても何も手に付かない。窓に目をやると、希沙の家の二階の窓の明かりが見える。ピアノはまだあの部屋にある。けれど希沙の弾く、耳に柔らかいその音は聞こえてこない。




多分、と律は思う。おそらく自分は希沙より先にその「奥さん」を知っている。以前、塾の帰りに駅近くの本屋に寄った時、店の前で男とその人が話しているところを見かけてしまったのだ。


 その女の人を認めると男はあんぐりと口を開け、しばらく突っ立ったまま黙っていた。


「何で『母さん』、ここにいるの?」


一瞬情けないほど落ち着きのない焦った様子を見せ、それでもすぐ立ち直って締まりなくへらっと笑ってみせる。


「……あなたこそ どうしてここ?」


「お、俺?俺はちょっと寄るとこがあって」


いつものことだけれど男の声が大きいので 聞き耳をたてなくても聞こえてしまう。律は慌てて店頭の雑誌を立ち読みするふりをした。


「若い女の子がうちを見に来ていたの。神妙な表情が普通じゃなかったから、こういうの嫌だと思ったけど後をつけた」


「あ……、ええっ?来てたって?つけたって?」


「前、あなたが話してた、会社の女の子ね。『一生懸命で頑張り屋さん』の」


「そ、そうか。実は今日会社休んでてさ、ちょっと心配してたんだ。彼女、今、弱ってるんだ。うーん、困ってる、っていうのかな」


奥さんの表情は陰になって見えない。声も小さくて聞こえない。なのに男の声だけ 律にははっきり聞こえた。


「近所に次々空き巣が入って、通り魔事件まであってさ。一人暮らしが怖くなったって」


「ひとりで飯食うの、寂しいと思ってさ。えっ、いやいや、泊まってないし。朝までに帰ったろ」


「だから、ごめん。だけど……解るだろ、母さんなら解るよな?」


「えっと、ああ、子供、そう、子供みたいなもんだよ。ほっとけないだろ」


「そうそう、親心、みたいな。やだなぁ、変な関係とかそんなんじゃないよ。何考えて……」


何かぽつりぽつりと受け答えしながら、奥さんはちらと律の方を見た。気づかれていたかもしれない。立ち聞きなんて最低だ、さっさとこの場を去らねばと思いながら上手く離れることができず 不自然に居続けている自分に今さらあきれる。


「もういい。帰るわ。うちで本当の『私たちの子供』が待ってる。」


奥さんがとりあえず話を区切り、この場から離れようとするにも関わらず、この男ときたら空気を読まない。


「……手とかは出してない。誓って」


奥さんは 振り向いてじっと男の顔を見つめる。


「なっ、何もしてないよ。あ、そりゃ心細そうだったから、えっと あの」


奥さんは表情を変えないで男に背を向けた。そっと離れようとする律の後ろから、男の声がまだ聞こえる。


「手、手くらい繋いだかな。彼女が眠れないっていうから子守歌 歌ってさ、それだけだよ、それだけ。離れて寝たし、いや寝てもないし」


奥さんはふう、と長くて寂しいため息をついた。




 週末、希沙が出かけるのを見かけ、声を掛けた。髪を丁寧に巻き、ネイルもいつも以上に華やかだ。そのくせ表情は硬い。律に気が付いた希沙は、困ったような笑顔をつくる。頼りない子供みたいに見えた。


「食事に行くの」


ああ、今日か、と思いながら知らないふりをした。


「いいじゃん、デートかよ」


「違うんだ。あの人のおうち。奥さんが手料理をごちそうしてくれるって」


「奥さんが、手料理、ね」


「そう、『家族づきあい』って言っていいのかな。あちらには小学生の娘さんがいるんだ。仲良くなれるといいな。私 妹、欲しかったし」


楽し気な言葉とは裏腹に 緊張と困惑が希沙を捕らえていることが 律にも解った。


「駅まで送ろうか。後ろ乗りなよ」


玄関前に停めてある自転車を出して律は言う。少しだけ迷った後 希沙は律の後ろに乗った。


「有難う」


背中に希沙の手のぬくもりと 懐かしいその気配を感じながらペダルを漕ぐ。


「ねえ、どうしたら」


「え?」


「どうしたら 幸せになれるのかな」


希沙はこつんと頭を律の背中に当てた。




 その日の様子について詳しくは知らない。どうやら「修羅場」なんかにはならなかったらしく 近所のおばさんたちは皆 心からほっとしたようだった。希沙はあれからまた毎日ちゃんと会社に行って、一人で帰ってくるようだ。




 朝、出かける希沙を追って律は声を掛けた。


「あいつ、もう送ってくれないの?」


「断った。もういいの」


希沙は背筋を伸ばし、真っすぐ前を向いたまま、振り返らずに答える。


「行ってきたんでしょ?あいつの家」


「うん。料理上手できれいな奥さんと可愛い小学生の女の子がいた」


希沙は前を大股で歩き続ける。淡々とした喋り方からは気持ちが見えない。下した左右の手は強く握っていて指先は隠れている。


「黙ってると気まずくて、居心地悪くて、女の子の興味、惹きたくて……私、嘘ばっかりついた。犬が好きだとか、何匹飼ったことがあるとか。動物なんか飼ったことないのに」


律は黙って自転車を押しながら後ろを歩く。


「手の込んだ魚料理を前にして『目』が怖いからお魚は苦手だとか、そんなの全部 嘘」


希沙は握ったままのその手で自分の頭をこつこつと叩く。


「自分が情けなくて、何かもう、泣けてきちゃうよ」


何か言ってあげたいのに、最初の音がすぐに出ない。律は絞り出すように声を出す。


「……本当はまだ、夜道、怖いんでしょ?空き巣も通り魔も捕まってない。お、俺 迎えに行く。呼んでくれたらすぐに行く」


希沙は一瞬立ち止まり、ゆっくりと身体ごと振り向いた。


「有難う。大丈夫。本当はそんなの駅の向こうの話、この辺りのことじゃないもの」


声が尻すぼみに小さくなって視線が泳ぐ。「希沙ねえちゃん」が無理に強がっているときは、いつもこうだ。律が黙ったまま見つめ返すと


「でも、そうね、いざって時は電話するね。助けに来てくれる?」


希沙が小さな声で続けた。


「……いいよ、頼りにして」


そう言ってから、改めてお互い電話番号を知らないことに気づく。そのことがなんだか可笑しくて 今さらだね、と言いながら教え合った。



「随分 大人になっちゃって。あの『泣き虫の律』がね」


ぽん、と横から小突かれる。淡い桜色に塗っただけのシンプルな色の爪が 丸く短く切られていることに 律は気が付いた。




 床に寝そべってクッションに顎を載せ、教科書を開いていると、遠くピアノの音色がするような気がした。慌ててスマホで聴いていた音楽の音を消し、律は窓を開けた。


題名は解らないけれど、切なくて優しいメロディに聴き入る。幼い頃よく聴かせてもらった懐かしい曲だ。気が強くて明るい希沙が、好んで弾くのは意外にもこういう静かな曲が多かった。 


ひんやり冷たいフローリングの床に額を当て目を瞑ると 懐かしい希沙との思い出がよみがえる。




    〈嘘つきな爪(ネイル) 了〉


あとがき


「さかなの目」の初回エピソードの


サイドBとでもいいましょうか。お父さんのとおるさんが それ程悪い奴ではなかったことを(書けば書くほどアホではありますが)言い訳したくて書かせて頂いております。一応「さかなの目」シリーズ「8」に当たります。




第七七回 mysterycircle 参加作品










ぺんぺん草 花束にして

オリジナル小説、随筆など。fc2「stand by me 」から引っ越しました。

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