どろりと緑色に濁った水の中 片方の金魚が腹を上にしてゆらゆら揺れている。
死んでる?一瞬背中がザワっとしたが、よく見たら口がぱくりぱくり動いている。ああ……生きてた。水槽の隣に目をやると小さな籐のカゴ。千波が小学生の時父の日にプレゼントしたやつだ。
──会社に行くときに必要なものを入れたらいいよ、ここだったら絶対忘れないでしょ
だけど、今はずっと空っぽだ。「お父さんの不在」が夢じゃないんだとまた確認させられる。元気に泳いでいる方は夜店で掬ってきた金魚の、たった一匹の生き残り。こっちの金魚は「一匹じゃ寂しそうだ」と言ってお父さんがペットショップで買ってきた。
「知らないわよ、私は世話しないからね」
祭りで掬って来た金魚を見せた時もお母さんは歓迎しなかったけれど、お父さんが新たに買ってきた時は呆れたような顔をした。
「出張の時とかさ、父さんがいない時は千波がエサやってくれよな」
お父さんは千波の顔を見て共犯者っぽく微笑んで、肩をすくめた。
金魚の様子が変だよ……声をかけようかと思ったが お母さんはキッチンで忙しそうに朝ごはんの支度をしている。金魚は朝の光に白いうろこを鈍く光らせ、腹を上にして浮いていたかと思うと時折斜めに身体を起こし、ふらふらと流されるように泳ぐ。小さな水槽の中でお父さんに毎日十分すぎる量のエサを貰っていた金魚は、つい昨日までぷっくり丸いお腹とひらひら揺れる大きなひれを、ひけらかす様にして泳いでいた。
──お父さん、お父さんの金魚が死にそうだよ
千波は心の中で父に呼びかける。今まで死んだ金魚はお父さんがすくい上げて、庭に埋めた。どの金魚ももっと小さくてはかな気に見えた。
「残念だったな。今度はもっと自由に海を泳ぎ回るような魚に生まれて来いよ。」
お父さんはそんな風に声を掛け、手を合わせた。
自由に海を泳いで、釣られて、食べられちゃう魚と、こんな風に飼われて、死んで埋められる魚、どっちが幸せなんだろう、千波がそう口に出して言うと
「それは難しい問題だなぁ…」
お父さんは少しの間考え込み、
「父さんの宿題にしておくね」
と千波の頭をポンポンと触った。
このまま本当に死んでしまったら……死んだ金魚の重みと光を失った目を千波は想像する。自分が父の代わりに一人でやることを思い怖くて足が震えた。緩慢にぱくりぱくりと動く口をじっと見ながら、自分が「死ぬな」と望むのは金魚への愛情からではなく、死や埋葬への嫌悪や恐怖のためだと千波自身気づいている。そして、今消えかかっている命に、何を重ねているのかだって知っている。
それでも、それでも。死ぬな。生きろ。逝くな。戻って来い。お願いだから、もとに戻って。「宿題」の答え、まだ聞いてないよ、お父さん。
*
飼い始めた頃は、千波も手伝って水槽の掃除をした。後は大抵お父さんが一人で世話をした。お父さんが帰って来なかった日、仕方なしに千波は初めて金魚にエサをやった。お父さんが家からだんだんと遠ざかり 水槽の水が徐々に淀む。
──お母さんが動物好きだったら お父さんは出て行かなかったのかな
千波は思う。
「父さんは 犬か猫飼いたいんだよなぁ」
お父さんは事ある毎に言った。
千波も一緒になって言ったけれどお母さんはそれだけは絶対に認めてくれなかった。一度だけお父さんが家に連れてきた会社の若い女の人は
「私 動物が大好きなの」
その人の飾りをつけた綺麗な長い爪を 珍しげに眺めている千波に言った。
「千波ちゃんも好きでしょ。動物好きに悪い人はいないのよね、私たち仲良しになれるよね」
そう言って その人は千波に片目を瞑って見せ、華やかに笑った。
──優しそうな人だな
千波も会話に加わり、その人が今まで飼った犬や猫の話を興味深く聞いた。その人は常に犬や猫が家にいないと寂しくて、死んでしまったりすると酷く落ち込んだり寝込んだりしたという。夢遊病のようにふらふらと行ったペットショップでそっくりの子に出会ったり、偶然が重なって子犬を譲り受けることになったりという話もひとつひとつが物語のようで、話を聞いていてもちっとも退屈しなかった。
その日お母さんは 珍しくテーブルに花を飾り、凝った料理をいくつも作り、そしていつもより、少しだけ化粧が濃かった。料理はものすごく美味しくてお父さんは褒めちぎっていたけれど、丸ごと揚げた魚に野菜のあんをかけたお母さんの自慢の一品に その女の人は箸をつけなかった。
「ごめんなさい、お魚だけは……」
食べるだけでなく見るのも苦手で、と女の人が言うと
「仕方ないわよね、好き嫌いは誰にでもあるもの」
お母さんは明るい声でそう言いながらも、その魚料理をテーブルからけっして下げなかった。
優しい言葉と裏腹にお母さんの目は暗くて鈍い光を湛えている。千波は何だか見てはいけないものを見てしまったような気がしてお母さんの顔から目を逸らした。お皿の上の魚の目が、食事の間中ずっと女の人を睨んでいるような気がして 千波は全然落ち着かなかった。
*
学校へ行く時間が迫っているのは解っていたけれど、千波はプラスチックの手桶を風呂場から持ち出した。緑色がかった水槽の中の水を、掻き出してみる。金魚を驚かさないよう気遣いながらそっと水を掬い取っても、替えの水を差す度に沈んだ汚れが巻き上がる。替えても替えても、濁りは消えない。底に溜まった汚いものが、舞い上がり水を一層濁らせた。水槽から古い水をすっかり出し、汚れを拭きとってから、新しくカルキ抜きした水を入れた方が早いのは 千波だってちゃんと解っている。もう登校しなくては遅刻する。のんびりなんかしていられなかった。手順を無視し、勢いで中途半端なことを始めてしまったことを頭の隅で後悔するけれど、それでも今、こうして何かをしなくてはいられない。
今にも死んでしまいそうな「お父さんの金魚」。自分の気持ちの不安定の理由も千波はぼんやりと解っている。
「早く学校行きなさい。遅刻するよ」
お母さんが心配そうな顔で、背後から声を掛けた。
「どうしたの?何やってるの?」
「金魚 朝からおかしいの。ほっておくと死ぬ、かもしれない」
「死」を言葉にしたとたん、それが動かしようのない事実として迫ってくる気がした。自分が何とかできるかもしれない、するんだと一瞬でも思ったのに、何だかもう自分なんて酷くちっぽけで何の力もない存在に思える。肩に入った力が抜けて、情けなさに泣きそうになる。
「前、こっちの金魚が調子悪かった時、お父さん水替えた。そしたら、そしたらね、元気になったんだよ」
お父さんの話題を何となく避けていた。お母さんの前で久しぶりに父の名を出した。お父さんが家にいなくなって ずっと仮面みたいに固まっていたお母さんの表情。一瞬くしゃりと崩れて、弱々しくなったように見えた。
お父さんが時々帰って来た頃は まだお母さんの気持ちも解り易かった。お父さんの言葉や態度に 怒ったり泣いたり叫んだりしてた。それはそれで聞いてて辛かったけれど ぱたりとお父さんが帰らなくなってから、お母さんの表情は何をも訴えなくなった。作る食事は別に不味くはなかったけれど、どこかいつも味が足りなくて千波の箸も何となく進まない。掃除などの家事もきちんきちんとこなしているのに、家の中はどこかどんよりとくすんでいるように見えた。千波と話している時も、お母さんはちゃんと声立てて笑う。けれど、目の底に真っ黒な闇のようなものがずっと居座っていて ずんずん広がって それはいつかお母さん全体を包み込むのではないかという 不安が千波の心を締め付けた。
千波は勇気を振り絞って言葉を続ける。もう叫びに近かった。
「出来るだけのことはやりたいじゃない。何にもしないでこのまま死なせちゃうと、きっとずっとずっと後悔するよ」
─だから……だから あたしは この水替えるんだ。金魚 助からないとしてもやるだけのことはやるんだ。
千波が次の水を掬い、新しい水を汲むために洗面所に向かう。ぽたぽたと水をこぼしながら廊下を数度行き来すると ずっと黙ったままだったお母さんがゆらりと動き、千波の手を掴んだ。
「もういいよ。もういいから。千波は学校行きなさい」
「だって……お父さんの金魚」
涙目になった千波を母がじっと見る。
「いいから。学校、行きなさい。後は 母さんが やる」
はっきりと言葉を切ってそう言った時のお母さんの目は以前の目だ。魂の抜けた捕らえどころのないどんよりした目じゃない。
「解った、お母さん」
金魚に心を残したまま、千波は学校に向かった。
*
静まりかえった部屋の中 こぽこぽと水音だけが響いている。夕闇が迫った部屋の中電気もつけず、お母さんはソファに座ってじっと水槽を見ていた。
「ただいま。」
サイドボードの上の水槽に目をやると、透明な水の中、二匹の金魚が静かに尾ひれをゆすっているのが見えた。朝 あんなに弱っていた金魚も、ちゃんと腹が下の方に向いている。
「出来るだけのことはやったから」
お母さんがゆっくりと顔を上げ、振り向いて言った。水槽に駆け寄って顔を近づけて見ると、金魚は少し身体を倒しながら方向を変え 二匹寄り添うようにゆっくりと水面に向かって泳ぎ出した。
──ああ、無事だった
千波はほっと息をつき お母さんの傍に座る。
「それは?」
お母さんが手に持っているものに気が付いて、千波が問いかけた。見たことのないポケットアルバムだった。黙ってお母さんが手渡すので 受け取って開いてみる。結婚前、まだ若い父と母が寄り添って笑っている写真。同じような写真なら以前にも幾度かせがんで見せてもらったことがある。ページを捲ると時間がさかのぼる。
「千波ちゃん、それ逆」
「本当だ、変な感じ。どんどん若くなっていくね」
お父さん、お母さん、順に高校の制服姿、中学生位のの頃の家族旅行の写真などが、並んでいた。
「これはまだ 出会う前だね?」
これから出会う相手を知らない頃の二人。当たり前なのに何だか不思議な気がした。
「このアルバムの写真をね、結婚式の時スライドにして皆に見てもらったの」
「そうなんだ。ふふ、お母さん可愛い、これ今のあたしくらいの歳?」
「若かったなぁ」
「戻りたいとか思う?」
その問いにお母さんは黙って考える風だったけれど、結局何も答えず、千波の肩にコツンと頭を寄せた。
「あ?これって?」
幼稚園くらいの歳の少女が 自分より大きな犬と一緒に写っている。犬と顔をくっつけて、愛しそうに目を細め幸せそうに微笑む少女
──これもお母さん?。
千波がお母さんの横顔を見上げる。お母さんは写真の犬を 写真と同じ目をして見つめていた。
「犬、飼ってたんだ?」
「言ったことなかったっけ?大好きな、大好きな子だったのよ」
お母さんはぽそりと続けて呟いた。
「だから生き物飼いたくないって、死ぬのを見るのは本当に辛いもの」
ひらひらと尾ひれを振って二匹の金魚は近づき、またくるりと方向を替える。お母さんは水槽の方を少しの間黙って見つめていた後、きっぱりとした声で言った。
「さいごまで 出来るだけのことは やらなくちゃね。」
千波はお母さんの背中に頬をくっつけて、後ろからぎゅっと抱きついた。
「戻りたいとか、生き直したいとか……母さんは思わないわよ」
──千波が生まれてくれて 良かったと思ってる。だからいいのよ、このアルバム通りで。
小さいけれど、強い思いを込めた言葉がお母さんの背中を通して聞こえてきた。
きっと今お母さんの目は真っ直ぐ前を見ている。とろんとうつろな目なんかじゃない。何も映さない黒い穴みたいでもない。
金魚が大きなひれをゆっくりと揺らしてまた方向転換し、水面向けてひらりひらりと泳ぎ始めた。
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