出発点にて ~ ひまわりの庭5 

第58回 Mystery Circle バトルロイヤルルール

---《 序の文 》●酔うというのは、体が夢を見ることだ。

《 挿入文 》●おれはこの夏を忘れないだろう。地獄の釜で煮られているような夏だった。

《 結の文 》●「ミルクをくれ。ストレートで」

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『酔うというのは、体が夢を見ることだにゃ』

指先にちょこんと載せたまたたびの粉を、義人が差し出すとニワがぺろりと嘗める。義人はざらっとしたその舌の感触が好きだといつも言う。もともと細い義人の目が更に細くなる。

「ニワは幸せ?」

『おう、そこそこな。この先いつ死ぬとしても 悪くねぇ一生だったと笑って死ねる そんな感じだぜ。』

「そっか、それは良かった。ここまで連れて来て悪かったかなとか ちょっと思ってたんだ」

『この家は 悪くねぇぜ。元々お前と『のりさん』のことを一番気にしていたのは 俺だってことを忘れんなよ』

ニワと自分の分を義人が「会話」し続けるのはいつものことだが 今日のニワの言葉のハードボイルドっぷりに耐えきれなくて噴き出した。

「義人、さっきまで何読んでたの?ニワの台詞変だよ」

「変かなぁ。いやぁ、こいつはもともと一匹オオカミ、いや一匹ネコだからさ。こんな感じかと。仲良くなるのにそりゃ、時間かかったんだよなぁ、ニワ」

義人がそういうと、ニワはニワ自身の声で「にゃあ」と答えた。

*

『おれはこの夏を忘れないだろう。地獄の釜で煮られているような夏だった、とな。』

義人がまた今日も縁側でニワと「会話」しているのが聞こえる。

義人が植えたひまわりも順調に増え 今年はますます見事な「ひまわりの庭」が出来上がりそうだ。黒猫は余計に暑いだろうと思いながら、台所の小窓からいつもニワのいる辺りを窺うと、隣の猫がニワの傍にいるのが見えた。淡いブルーの目、薄いグレーのつややかな毛並みのこの雌猫は とても優雅な立ち居振る舞いをする。「ビル」なんて愛想のない名前をつける隣人のセンスはどうかと思うが、街中のオフィスビルの駐車場で拾われたと聞いた。いったいどんな過去を持つんだろう。

『こんな暑い日に正装して結婚式なんて本当、御苦労さまだわ』

ビルの家人は今 ビルを置いて田舎の結婚式に行っているらしい。

『朝起きたらキャットフードがてんこ盛り。これは2、3泊してくるつもりよ』

今度は雌猫の声色で義人が言う。

私が聞いていることに気がついていないようだ。隣の猫も置いていかれて寂しいのか、家の人が留守だといつもニワに会いに来る。ニワもまんざらではなさそうだ。ひまわりが大きく育ち始めたうちの庭は、大きな葉が作るいい感じの日陰があり、立ち並ぶ茎の間から時折気持ちの良い風が吹き抜ける。義人は今日はひとりでビルとニワの二匹分の「会話」をしていて、今は一般的な「人間の結婚式」について語っている。

『ところで 義人はどうなの、どうするの』

いきなり[ビル]が言いだした。

ドキっとして 拭いていた皿を落としそうになる。

『煮え切らない義人の態度を見ると、尻に噛みつきたくなってくる。のりさんはあんなにいい子なのに』

「ニワ」が褒めてくれた。ここは素直に喜ぶところだろう。そう思っていると話は予想外に展開し始めた。

「オレだってずっと考えてたさ、ニワ」

『何が問題なんだ、このままだと のりさんは幸恵叔母さんに責められっぱなしだ。』

『のりさんの気持ちは解ってるの?義人は気持ちちゃんと伝えてるの?」

『面倒くさいヤツだ。何でぐずぐずしえるんだ、言え』

視線を落とした横顔は今までの義人と何だか微妙に違う。このところ 前みたいにふざけていてもずっとどこかうわの空で、何か言いたげだった。

「のりさんとひまわり満開になったこの庭で結婚式がしたい、最初に種をまいた時から思ってた。『暑くて迷惑』かもしれないけどね」

えっ…。

蛇口に延ばした手が止まる。自分の耳を疑った。ついこの間ストレスで聞こえなくなったオンボロな耳だ。今度は幻聴なのかもしれない。

『それを俺に向かってまず言うか?相手はのりさんだろ、ちゃんと向き合え馬鹿』

長い前ふりの後 縁側からずずっと身体をずらすようにして茶の間の中に入り、改めて義人はこちらを向いた。義人はとっくに私が居ることに気が付いていたのだ。逆光で表情が見づらい。

「のりさん、聞いてる?」

「き、き、聞いてるけど」

心の準備ができていない。この間幸恵叔母さんが来て、また

「ちゃんと結婚しなさい、でなければいつまでもこの家で一緒に住むのは感心しない」

と、くどくど言った時 義人は確か出かけていたはずだ。重ねて

「どういう家のどういう育ちの子なの?」と質されて、改めて「今そこに居る彼」以外、義人について何も知らないことを思い知らされたのだ。

「少しオレの話をしていい?」


真剣な義人の表情に少し不安を感じながら さっき洗った手を無駄にもう一度洗い、蛇口を閉め忘れて一旦戻り、手を拭いて台所から出て、やっと義人の傍に行った。

「ごめん、面白い話じゃないよ。でも やっぱり大事なことだと思う。俺がどんな親の血を引いていて その親とどう関わったかとか」

「…ご両親?」

「オレの親父は家庭向きな男じゃなかったんだ。子供の俺は親父が外で何をしているのかさっぱり解らなかった。ただ」

義人のそういう話は初めて聞いた。聞き出そうとも思ったこともなかった。でも、陰になった義人の顔からも せっぱつまった真剣さが伝わって 言葉が挟めなかった。

「ただ、いろんな歯車が壊れ、母親がどんどん耐えきれなくなって、心が病んでいっていることは解った。そんな母親を支えたいと思った。でも」

続きを言い淀む義人の辛そうな顔を見ていると苦しい。この家で自分の境遇を受け容れ切れずにいた幼い自分を思い出す。自分だけが世界で一番一人ぼっちのように思えた夏。この明るいおおらかな義人が、そんな私より数倍も重いものを抱えて生きてきたのかと思うと 手が震えた。

「…いいよ、義人。辛いなら言わなくていい。全部聞きたいなんて思ってない」

泣きだしそうな顔で義人はくしゃっと笑った。義人に近づいてそっと手を延ばす。そこにいるのに手を延ばしても触れられないくらいずっと遠くにいるような気がした。

「ごめん、のりさん。でも聞いてほしいんだ。それからちゃんと考えて、オレとじゃ幸せになれないと思ったら…」

抱き上げたニワが、その言葉を遮って

「みゃう」と鳴いた。

「こんなに長くのりさんの傍にいてから こういう事言いだすの、ズルいと思う。卑怯だと思う…申し訳ない、と思う」

本当にごめん、と畳に前髪が触れるくらい深く 義人は頭を下げた。

「ただ 一緒にいて のりさんが笑ってくれて幸せだなって 毎日そんな風に楽しくて でもやっぱり結局『逃げて』いたんだと思う」

返す言葉を見つけることができず黙っている私を見つめ、義人は もう一度ごめん、とつぶやいた。長い話をし終えて、義人は長いため息をつく。

「家族を守れない男と、病んだ母の子供だ。そんな血をオレは引き継いでいる」

酷いことをしたはずのお父さんを嫌いになれなかったこと、お母さんを支えきれず傷つけてしまったこと。そんな風に言う義人が一番傷ついていたはずなのに。私は目をつぶり、深く息を吸い込んだ。ニワの重みと柔らかさが私の心を落ち着かせる。

『お父さんはお父さん、お母さんはお母さん、だ。義人とは違う。同じようになんてならないし、そんなことを心配しなくていい』

義人の真似をしてニワの言葉で答えた。

『のりさんは…』

ニワに触れることで勇気をもらえる気がする。もう一度ニワの柔らかな肉球をなぞる。

『のりさんは、そんな義人が、きっと…。』

ニワが私の指を嘗め返す

『きっと丸ごと全部大好きだ』

かなり長い間を置いてしまった後、語尾を付けくわえて

『…にゃ』

と言うと、私の口元とニワを交互に見て、泣きそうな目をした義人の頬が少しゆるみ、細い目がもっと細くなった。のりさんさえOKしてくれたら、今年のひまわりが咲きそろい満開の内にこの庭で、「結婚」したいと、義人は言った。「暑いけど」と付け加えて。

駅からうちまでの『ひまわりロード』をみんなが辿って来るんだ。その終点がこの庭─それがうちの庭だけでなく道沿いにまでひまわりの種を撒いた義人の望みだった。


「のりさんとずっと一緒にいたい。結婚してくれますか?」

小さく震える義人の指を握り深く肯いた。

ニワが「みゃあ」と鳴き、義人の膝に飛び乗った。いつの間にか 隣の猫のビルも傍にいて、寛いだ姿になって大きく欠伸をひとつ、した。

ひまわりの時期が終わるまでに婚姻届を出すだけのつもりだったのに、いつの間にか人を呼ぶことになり、その後は忙しかった。

この間久々に再会した小学校時代のクラスメイト、わずかな親戚 仕事仲間やそのほか連絡を取った友人たちが 暑い中急なことに嫌な顔もせず集まってくれた。隣人も近所の人も、通りがかりの人も気軽に参加できるようにしよう、もちろん猫も、と義人は言い、人前結婚式の形をとり、庭で皆に手伝ってもらってのバーベキュー大会になった。

浴衣やサンドレス、アロハや短パンという思い思いの格好で来てくれた皆をその後、隣町の花火大会に送り出し、残った二人と一匹で、家の二階から遠い花火を見ることができた。ひまわりの花を見れば、この日のことを私はずっと、鮮明に思い出せる。どんなにおばあちゃんになっても、きっとだ。

渋る義人を説得すると、彼はまるで「ひまわり園」の観光ポスターのような手紙をつくり 小さく結婚報告を書き添えて「居場所も知らないお父さん」と「天国のお母さん」に向け、風船に結び付けて空に飛ばした。暮れていく夏の空にひまわり色の風船が高く高く上がって行くのを 義人とふたりでいつまでも眺めた。*旅行の支度をして玄関に立つと、義人がまたニワと「会話」している。幸恵叔母さんにニワの世話を頼んだとはいえ、置いていくのは後ろ髪引かれる思いだ。

「さびしいんじゃないの?ニワさん」

『馬鹿いえ、お喋りなおまえが大事なことを言えずにずっとうだうだしてたんだ。やっと責任持ってのりさんを幸せにする、その記念の旅行だ。うるさいのがいなくてせいせいするってもんだ。これからは当分昼寝し放題だ』

「ふふん 無理しちゃってさぁ。ほれ、トランクに入るか?素直に言ってみ、連れてってって」

あの調子では本当に義人はトランクに入れかねない。やっぱり猫連れの旅行に変更ってできないだろうか、と私も結構真剣に考える。

『うるせい、さっさと行って来い。』

後から別の声がしたので 驚いて振り向くと幸恵叔母さんが庭の方から入って来て ひょいっとニワを抱きあげた。

「もう、何をぐずぐずしてんのよ。飛行機乗り遅れるわよ。ニワはあたしに任せなさい、これでも猫は得意なのよ」

ニワを抱えたまま義人の背を押すように玄関まで来ると、私たちに早く行けというように手を振って見せ、すぐにニワと台所の方に戻って行った。台所の窓から 幸恵叔母さんの声が聞こえてくる。

『おい ねえちゃん ミルクをくれ。ストレートで』

「はいはい 猫用ミルク ストレートね」

満開の「ひまわりの道」を辿り、今 義人とふたり駅へと向かおうとしている。ここが「出発点」だ。お母さんとお祖母ちゃんの思い出の詰まった家を振り向いて 心の中で声を掛ける。

― 行ってきます。私 ずっと幸せだよ。有難う。

ぺんぺん草 花束にして

オリジナル小説、随筆など。fc2「stand by me 」から引っ越しました。

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