「はい、桐子さん、買ってきたよ、新聞」朝の日課のコンビニ通いから戻ったナリちゃんの顔が どんより暗い。憧れのコンビニ店員・・ナリちゃんは顔を見るだけで幸せになって一日を過ごせるはずなのに。「いなかったの。こんなことって今まで一回もなかったのに」病気かな・・家庭の事情で田舎にでも急に帰ることになったのかなナリちゃんの想像はとめどなく続く。「そうだ、もしかしたら、歌手としてメジャーデビューが決まって、レコーディングでカンヅメになってるとか・・」ナリちゃんは超奥手で恥ずかしがり屋だ。実は一度も口をきいたこともないらしく、本当はその男のことを何も知らない。バイクで来てるみたいなの。どこに住んでる人なんだろう、学生なのかなぁ ニートなのかなぁ。ねぇ、ねぇ、何歳だと思う?桐子さん・・。早朝だけバイトして、その後どういう一日過ごすんだろう。何が好きなのかな、どんな音楽聴くのかな。毎日毎日 飽きもせずナリちゃんは新たな空想をしては、あたしに語る。だからさっき「メジャーデビュー」だなんて言ってたけれど、音楽やってるのかどうかだって定かではないのだ。ナリちゃんが妄想語りだしたら長いので、ふんふん聞き流して 新聞を開く。昨夜大きな列車事故が ほど遠くないエリアで起きていて、多数の死傷者が出た、と一面に大きく載っている。関連記事はほかの面にも続き、事故現場の様子、原因を探る記事、身元が判明した死傷者のプロフィールなどで紙面は埋まっていた。これって〇〇駅じゃない、えっ、何時のこと?職場の仲間も知り合いも乗る電車なだけに背中からざわっとして、ナリちゃんに振り向いて声をかける。ナリちゃんはちょっと悲しそうな顔のまま、ソファーでうつらうつら二度寝をし始めたところだった。ナリちゃんにとって大事なことは どんな事故や大災害が起きようと変わらないんだろうな・・・ある意味すごいヤツなのかもしれないな・・そう思いながら 新聞の文字に目を落とした。*ナリちゃんは毎朝コンビニで新聞を買ってきてくれる。パンとか買えば?というと ナリちゃんはふっくらしたほっぺたを更に膨らませて答える。「だってダイエット中だし」「そんな朝から要るものなんて別にないよ」そう言うと、ナリちゃんはひどく悲しそうな顔をして、あからさまに肩を落とした。「しんぶん」慌てて言った。思いつきだった。無理やりでも用事を作ってナリちゃんがそこへ歩いて通っていく理由は後から知った。ナリちゃんはもうひとつの近いコンビニを通り越してわざわざ信号を渡ってそこに行く。自転車に乗ると寝ぐせの髪をせっかく整えたのに意味なくなるもん・・なんて、まあ朝早くからご苦労なことである。ナリちゃんは職場の同期だけど4つ下の高卒で、遠方の田舎からの就職組だ。私は地元なので、今までは普通に実家から仕事に通っていた。窮屈な寮をやっと出たナリちゃんは、自分で思っていた以上に怖がりでさみしがりだった。なんだか一人暮らしが心細くて・・と毎日涙目になってこぼすのを聞いて、私は親の目から自由になりたい一心で ナリちゃんのところに転がり込んだ。ナリちゃんのその素朴でまじめな人柄は、うちの両親の完璧な信頼を得、晴れて私は親離れに踏み出せたのだった。だからって言うんじゃないが、私はナリちゃんの喜ぶ顔には めっぽう弱いのだ。*ナリちゃんの知りたかった「彼」のプロフィール。事故の被害者の欄に見つけた。一度だけナリちゃんに連れられて一緒にコンビニに行って顔を見ただけだけど、名札に子どもみたいに大ざっぱな字で書かれた、その名前を覚えている。名前に歳に出身地。学校に夢に 性格。子どものころどんなだったか。友だち 両親 先生の 惜しむ声 声 声。数日中にもっと詳しく 被害者ひとりひとりの今までの生きざまなどを知ることができるだろう。ナリちゃんの邪気のない安らかな寝顔を見て思う。ナリちゃんの夢の中。彼は期待の大型新人として、TVの番組のスタジオでナリちゃんと今、涙の対面を果たしているのかもしれない。
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