さかなの目シリーズの3です。お題をどこかで貰うたび、この家族(特にお父さん)と結び付けて書き続けてきました。ダメダメなお調子者で父親としてはどうなの?って人ですが、突き放せないキャラクターです。てきすぽで頂いたお題で うろ覚えですが「喫茶店で」というお題だったと記憶します。
カウンターの上の水槽の中、青く光る小さな熱帯魚がツツー ツツーと行き来する。
水の入ったグラスの周りについた水滴を指につけ、千波は無言のままテーブルに線や円を描いては消した。
白いブラウスに黒いエプロンをつけたウェイトレスが 銀色のトレイを持って傍をゆっくり通りすぎる。
カウンターの中には蝶ネクタイと黒いベスト、きちんと背筋を伸ばした白髪の男の人がサイフォンでコーヒーを沸かしている。小さな音で流れるBGMは聞いたことのあるピアノ曲だ。確かおじいちゃんちのレコードプレーヤーで聴かせてもらった映画音楽。
お父さんは最初千波に、体育大会の練習のことや 日々の学校の様子などをぽつりぽつり聞いてきた。
けれど、千波の返事は「うん」とか「別に」ばかりだ。 お父さんもそろそろ続く言葉を失くす。目線を店内うろうろさせた末、熱帯魚の水槽にたどり着き、落ち着いた。
「子どもの頃、父さんさ、熱帯魚が飼いたかったんだよなぁ」
黙ったままの千波にちらと視線を向けまた戻し、お父さんは続けて言った。
「クラスの子の家に遊びに行ったらさ、熱帯魚の大きな水槽があってね……」
「あんなのが欲しいって、家に帰ってオフクロに言ったけど、速攻ダメって、熱帯魚なんてうちには合わないってさ。まあね、超小さな純日本の家、だったしなぁ。でも結局、それ以外でも何飼いたいって言ってもさ、いろんな理由つけて反対されたけどな、ああ、この話もう千波にしたことあったよな」
間に何度も何度も水を口に運びながら、お父さんは一人でそんな話を続けている。
「だから大人になったらさ、絶対動物何匹も飼って、金魚も飼って。そうそう子供もいっぱい作って、あはは、それはあんまり関係ないか。まあ、そんな風に思ったんだな」
最後の方になると、お父さんは声がだんだん小さくなった。自分が勝手に語り始めたくせに、何だか話を早く切り上げたがっているみたいだ。
うん、その話なら知ってる。熱帯魚の水槽を横目で見ながら千波は思い出していた。金魚掬いしたお祭りの日話してくれた。ペットショップに行ったあの日も聞かせてくれた。
さほど仲良かったわけではないそのクラスメイトは、お父さん達に仲間と認められたくて、熱帯魚を一匹ずつくれると言ってきた。もちろんその子の親には内緒だ。
他の子は断ったのに 以前からその熱帯魚が欲しかったお父さんは、その場でもらって帰ってしまったのだ。明日はちゃんと飼うのに必要なものを買いそろえよう。図書室で飼い方の本も借りてこよう。小さなプラスチックのケースの中、ネオンのように光る小さな熱帯魚を何度も何度も眺めながら、その日は眠りについた。
お父さんの話はそんなだったと思う。その後どうなったのか、今どうしても思い出せない。お父さんの話はいつもそのあたりで終わっていたのかもしれない。
三個目の円を描きかけた時、ウェイトレスが千波のテーブルに注文したものを運んできた。
さっき注文を聞きにきた人とは違う人だ。明るい色に染めた髪の生え際に白いものがちらと見える。お母さんくらいの歳かな、千波は思う。ウェイトレスは迷うこともなく、お父さんの前にコーヒーを、千波の前にクリームソーダを慣れた手つきで置いて、足早に離れていった。日曜日の昼下がり、さほど広くない店内に客はまばらだ。少し向こうの席の女の人の笑い声が時折高く響く。
「やっぱりな」
お父さんはクスリと笑って、コーヒーとクリームソーダを取り替えた。
「千波がコーヒーとはねぇ。おとなになったもんだなぁ」
まるで十年以上も会わなかったみたいな言い方だ。
本当はコーヒーなんか飲みたくなかった。だけど、当たり前みたいに
「千波はクリームソーダだよな、お父さんも同じにしようかな」なんて言われたら、千波だって別のものを言いたくなる。
駅前で待ち合わせて、まず お父さんは「千波は何がしたい?どこへ行きたい?」と千波に聞いた。
「そこでいい、何か飲みたい、のどが渇いた」目の前にある喫茶店を指差した。
お父さんはその古い喫茶店の黒っぽい色ガラスの窓を見、少しだけきょとんとした顔を千波に向けた。
「あっちの新しくできたショッピングモールもう行ったか?ドーナツ屋とか、ほら、千波の好きなクレープの店もあるって聞いたけど?」
その質問には答えず、千波は
「そこでいい。立ってるの疲れた、座りたい」
何時間も待たされたわけでもないのに、小さい子どもみたいに口を尖らせて言った。
新しい区画のどの店も、お母さんと「次の週末には行こうね」と言いながら、何だか先延ばしになっている。内緒だけど、もう友達と先に行って来たのもある。
お父さんが家に帰らなくなって半年近くなる。その間に駅前の開発も終盤に近づいてきた。ずっと前から千波たちが楽しみにしていたショッピングモールの完成に伴い、この辺りにあった古い店舗もそれぞれ店を畳んだり、そちらに場所を移して営業し始めた。
お父さんと千波が 以前金魚を買いに行ったペットショップも看板をつけたまま閉店している。
取り壊しもきっと近いのだろう。喫茶店の色ガラス越しにも、移転先の書かれたポスターが、剥がれかけた一隅を風に捲られパタパタさせているのが見えた。看板に描かれた子犬が 色褪せて消えかけのまま首をかしげてこちらを見つめている。酷く悲しそうな顔に見える。
たくさんのものが形を変え、たくさんのものが記憶の隅に追いやられ、いつか忘れ去られて行く。立ち退きを渋って踏ん張っているのか、この喫茶店といくつかの店舗だけが、古びた「駅前商店街」の小さなアーケードの下に続いている。小さい頃、家族で出かけた遊園地の帰り道、もう歩けないとダダをこねて入ったのがこの喫茶店だった。
金色の縁取りのカップを、千波はそっと持ち上げる。思ったよりカップは重い。ミルクも砂糖も入れないままのコーヒーは口に含むといきなり苦くて、ちょっとむせそうになった。涙目になる。
朝のコーヒーはお父さん。お母さんは紅茶。だからコーヒーの匂いはお父さんのいる朝のにおいだ。ごくんと無理やり飲み込んで、目がしらを押さえる。
「ほうら見ろ。ブラックはまだ無理だろう、千波」
お父さんが紙ナプキンを何枚も取って笑いながら差し出した。受け取った紙ナプキンで口を拭き、千波は時間をかけて小さく畳み、ソーサーの隅に置いた。笑った目のままのお父さんの顔を見る。涙を溜めた千波とその目が合うと、ゆるゆるとお父さんの顔から笑いが退いていった。
聞きたかったことはもっと別のことなのに 千波の口からやっと出たのは
「その熱帯魚は……どうなったの?」
そんな質問だ。
いきなり話を戻されて、それもさっきまで聞いている素振りさえ見せなかった話の続きを促されて お父さんはちょっと戸惑った顔をした。
「連れて帰ってどうしたの?おばあちゃんは飼うの反対してたんでしょ?その子も家の人に内緒で勝手にくれたんでしょ?」
何でそんなにむきになるのか自分でも解らなかった。千波の声に弾かれたみたいに、遠いカウンターの水槽の熱帯魚が一斉に向きを変える。
「ああ、その後なぁ」
お父さんはソーダの上のアイスクリームを長い銀色のスプーンで突きながら少しの間 色んな事を思い出しているようだった。
「貰って帰らなかった子が先生に漏らしちゃって、ばあちゃんにもすぐに伝わって返しに行かされた。物凄く怒られたなぁ、あの時は。向こうの子も相当叱られたらしいけどね」
きれいな緑色のソーダがアイスクリームの白で濁っていく。お父さんの指先辺り、きらきら光るグラスの中の小さな泡を千波はじっと見つめていた。
「でも、本当に参ったのはさ、その話を次の日の反省会の議題にされちゃってね」
子どもの時のお父さん、今の千波よりも年下のお父さんってどんなだろう、千波は顔を上げお父さんの顔の中にその少年を探してみる。クラスメイト、お母さん、先生、学校、「反省会」。何だか少し可笑しかった。
「『好きになって欲しいから物をあげるとか、物を貰ったから仲良くするとか、そういうのは間違っていると思います』その時好きだった女の子が手を上げてそう言ってね。実はそれが一番ショックだったりして……」
──父さんはその女の子に消しゴムや鉛筆をげたことあったんだ。「姉ちゃんがくれたけど、いらないからやるわ」とか言って。
お父さんは大事な秘密を打ち明ける子供みたいな顔をして、小声で付け加えて言った。
お姉さんに頼みこんで分けてもらった可愛い形の消しゴムや花柄の鉛筆を さりげなさを装って好きな子に渡す小学生の男の子。その幼い一生懸命さを千波は想像する。
熱帯魚を差し出してでも、仲間に入れて欲しかったお金持ちの少年のことも、千波は考える。どんなに沢山のものを持っていたって、友達は簡単には手に入らないんだね。
どうしてそんな風に、ひとは気持が上手く伝えられず、一番言いたい言葉のまわりでうろうろしてしまうんだろう。別の言葉で取り繕っているうちに本当に聞きたいことを見失ってしまうんだろう。
千波はコーヒーにもう一度口をつけた。さっきより少し冷めていたけれど、苦さはやっぱり変わらない。
「無理しない、ほらミルクと砂糖。それとも、こっちと変えようか?」
銀色の小さな容器に入ったミルクとシュガーポット、その横に自分のクリームソーダを お父さんは押し出すようにして千波のコーヒーカップの前に並べた。
クリームソーダの一番下にあったひとつの泡が上がって行くのを見届けて、千波は絞り出すようにやっと声を出す。
「お父さんはもう帰ってこないの?」
「お父さんはお母さんよりも、あの女の人の方が好き?」
「お父さんは私より あのひとの方が大事?」
たてつづけに聞いた。自分で聞いたのに返事が聞きたくない。本当は今、返事なんか聞きたくない。
──どうかお父さん答えないで。お願いだから。
千波は ぎゅっと目をつぶる。テーブルに置いた両手の拳をぎゅっと握る。次に目を開けたら、今までのが全部夢でありますように。ショッピングモールなんかなくていい、ドーナツショップもクレープ屋もおしゃれな雑貨屋さんもいらない。古臭い駅前商店街でいい。全部夢でありますように。
大きな手が千波の手に被さった。温かいのが悔しい。
「ごめん、ちなみ。父さんは」
聞かない。もう何にも聞かない。
「金魚、死んだよ。お父さんと一緒にお祭りで掬ったのも、あとで一緒に買いに行ったやつも」
「お腹上にして死にそうだったのを、お母さんと一緒に水替えて、やっと助けたんだよ。二人で一生懸命助けて 守って、元気になった。だけどこの間死んだ。お父さんが世話するって、お父さんが大事にするって、お父さんが飼いたいって お父さんが、好きだって、」──言ったくせに。
「ごめんな、千波、」
何か言おうとするお父さんの手を払いのけて、千波は立ち上がる。幼い頃初めてクリームソーダを飲んだ喫茶店を後にして、千波は駈けて、駈けて、駈けて家に戻った。
お母さんごめん、やっぱりあたしには どうにもできないのかな
「お帰り」
お母さんはジーンズの裾を上げ、腕まくりして玄関先の水道のそばに洗い物を並べていた。どこで、誰と会ってたの?と千波には聞かない。
「何、やってるの?お母さん」
息を整え、できるだけの明るい声で話しかけると、
「きれいに洗ってみたの。ほら、金魚の水槽洗って、もう片付けようと思って。ひとつピカピカにしたら、なんだか気持よくなってね、勢いで千波の靴でしょ、スリッパでしょ、玄関マット
でしょ」
玄関先の洗い物だけじゃなく、ベランダにもシーツやカバーが大量に干してある。
「お母さん、あのね」
千波が何か言おうと口を開くと、
「ちなみはかあさんのだいじ」──千波は母さんの大切なこども、小さい時泣いたり拗ねた時、思いっきり怒られた後、いつも言ってくれた呪文の言葉をお母さんは目を細めてゆっくり繰り返し
「さて、千波ちゃん、甘い物でも食べますか」
千波の頭に軽く手を載せてから、お母さんは大きく伸びをして言った。
白いシーツが風を受けてはためき、空っぽの水槽のガラス、きらりと光る滴の中に、虹が見えた気がした。
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