窓を開けると花の香りが漂ってきた。あれは「金木犀」。
夜になると余計に匂いがわかるよ、と言ったのは、昨年の朔。
耳を澄ますと隣のテレビの音、向かいの給湯器の音、遠くで走る電車の音。
「こんなに音がするのに 静かだって思うの、不思議だね」
その時の朔も、妙にしんみりした横顔だった。
いつの間にか 外から帰って来たキジトラの仔猫は 毛布の上で丸くなって寝ていて、ぴくりともしない。安らかな寝顔。昼間は外で鳥を追いかけて あんなに激しく走り回って遊んでいたのに。
「夜の闇と明るい黄色の月を見ているとさ、実家に残して来た年寄りの黒猫のことを思い出すんだ。手を差し出すとすぐに舐めてくれた優しい子だった」
初めて聞く、朔の「思い出話」だった。
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最初、「トイレの芳香剤のかおり」だって、言ったのは 私。
「おかしいね。逆だよ、それ。」
朔が笑って言った。──花の香りがあってその後 芳香剤ができるんだもん。
「ふぅん、木の名前なんてよく知ってるよね」
感心して真顔で言ったら 朔は顔をくしゃくしゃにしてもっと笑った。
「そんなの、みんな知ってるもんだと思ってた」
*
私は木や花の名前なんて知らない。朔のように手料理も上手くない。うんと年下の、過去のこともお互い聞かないで暮らすただの「同居人」。
次々といい加減な恋愛を繰り返しては破綻し、その都度荒れたり落ち込む私を 温かい「家庭的な味」と小さな心遣いで慰めてくれる朔。
今さら朔の過去の話も聞き出せない。きっかけも掴めない。でも時折見せる寂しそうな横顔に、朔のために何にもしてあげていない自分を情けなく思う。何か聞いたら朔は居なくなってしまう、そんな気がしていた。私なんかが一緒にいない方がいいのかな、恋愛対象なんてお互いに無理だよね、そう思ってしまっていた。
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「ああ、夜風にのって いい香りがするね」
石鹸の香がふわっとした。 後ろに風呂上りの朔がいる。
「また、キンモクセイの季節なんだなぁと思ってた」
「最初、トイレの芳香剤って言ったくせに」
「そんなこと言ったっけ」
缶ビールのプルタブを開ける音。
「すっかり寒くなったね。窓閉めるね、冷えちゃうから」
「いや、夜風が心地いい。ビールも旨い。伽耶さんも飲む?」
昨年からすっかり家に居着いたあの猫が、朔の柔らかい声を聞きつけて うっすら目を開ける。
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